yonigeのアルバム「健全な社会」は昨年の5月にリリースされた。ツアーの東京公演となるTSUTAYA O-EAST公演は「日程が決まったと思ったら直前に世の中の情勢が悪くなって開催できなくなる」という昨年からの延期に次ぐ延期によってこの日にようやく開催できることになった。
その間には本来ならこのライブの後に開催されるはずだった中野サンプラザワンマンも11月に開催され、ツアーの始まりだったはずの公演だったのに気付いたらファイナルになっている。もはや絶対に中止にはしないでこのツアーを完遂するぞという意地である。
検温と消毒とyonigeのライブではおなじみのweb問診票を記入して場内に入ると、床にはテープでマスが作られており、その中で観覧するというスタンディング形式。こうしてスタンディングでのライブハウスでyonigeのライブを見るのも実に久しぶりだ。
この状況下ゆえか、平日とはいえ少し早めの18時30分を少し過ぎた頃に場内に流れるBGMが少しずつ大きくなるとともに場内が暗転して、おなじみのサポート陣を加えた4人がステージに登場。
牛丸ありさ(ボーカル&ギター)は髪が少しピンクががった色になっており、対照的にごっきん(ベース)は黒髪に。しかもかなり痩せたような感じに見える。土器大洋(ギター)はいつもと変わらない長髪であるが、片やホリエ(ドラム)は長かった髪を切って別人のようにさっぱりとしている。
暗闇の中で牛丸がポロポロとギターを鳴らし始めると、「健全な社会」のオープニング曲である「11月24日」を歌い始め、バンドの音が加わって後半からはそのバンドの音がホリエのスネアの連打に牽引されるように激しさを増していく。牛丸のボーカルも囁くような歌唱から一気に解放されて声を張り上げるのだが、その歌に宿る瑞々しい力は、これまでやるとは思わなかった弾き語りをやったりしてきたこの1年の止まらなかった活動がしっかりと自身の力となって反映されている。つまりはこの段階で良いライブになるという予感しかないのだ。
「健全な社会」は収録曲にもはやかつてのyonigeの代名詞的な曲であった「アボカド」や「さよならアイデンティティー」のようなノイジーなギターとアッパーなメロディというタイプの曲が全くない、ひたすらに牛丸とごっきんが今バンドとしてやりたいこと、やるべきことに向き合った作品であるがゆえにライブでの盛り上がりという要素を度外視している部分もあるのだが、それ以前の曲である「リボルバー」ではイントロが鳴らされた段階で観客の腕が上がる。もともとごっきんも前に
「yonigeのライブは場所や観客によってノリが全く変わる。めちゃ盛り上がる時もあれば墓場みたいな空気の時もある(笑)」
と言っていたが、今はそこをどうこうしようとも思っていないのであろうが、
「永遠みたいな面した後 ふたりは別々の夢を見る
君のおへその形すらもう 忘れてしまっている」
というフレーズの部分ではホリエのバスドラのリズムに合わせて手拍子が起こる。「健全な社会」のyonigeの音楽性やスタイルに理解を示しながらも、この状況下であってもこのライブをより楽しめるものにしたいという気持ちが客席側から伝わってくるかのようだ。
yonigeは過去の曲をライブでは今の4人編成でのアレンジに変えて演奏することも多いのだが、ノイジーなギターと体を前後に揺さぶりながらベースを弾くごっきんの姿がエモーションを感じざるを得ない「最終回」は原曲そのままのアレンジで演奏される。
しかしながら途中で牛丸は明らかに歌詞に詰まるような仕草を見せると、最後のサビのフレーズを2サビのもので歌っていた。いつになってもこの歌詞を間違えるというライブならではの事象は全く変わらないな、と牛丸らしさを感じたりもするのだが、むしろあえてそう歌ってるんじゃないかとすら思えてくる。
淡々としたリズムに牛丸とごっきんの声が重なり、後半で急激にアップダウンを繰り返すという展開を見せる「ここじゃない場所」からは早くもyonigeの深い部分へと踏み込んでいく。
2年前の日本武道館ワンマンで演奏された際のド派手な演出が今も忘れられないが、それでもyonigeはそうした演出を使うというよりもむしろバンドの演奏だけでライブを作っていくバンドであるということをライブハウスで見ることによって感じることができる、牛丸のアカペラ的なボーカルから始まった「2月の水槽」のアウトロのビートをホリエがキープし続けると、そのまま「バッドエンド週末」のイントロにつながっていく。この全く同じリズム、全く同じビートを収録作が全く違う作品の曲同士でできるというあたりに、「2月の水槽」はこうして「バッドエンド週末」と繋げるために作ったんじゃないのだろうかとすら思う見事さである。
その武道館ワンマンの直前に配信リリースされ、それまでのyonigeの曲と全く違うサウンドに驚きを与え、バンドが「健全な社会」という新たなフェーズへ向かっていくことを示した「往生際」での、ごっきんのメンバーを見ながら刻むゴリゴリのベースを軸にしたグルーヴと、サビでの牛丸の実に伸びやかな歌唱。それは「健全な社会」という変化作を作ってでも手に入れたかった力をバンドがちゃんと今手にすることができているということを示していた。リリース時は戸惑いも強かった印象の曲だが、今ではyonigeを代表する1曲になったと言ってもいいだろう。
「3回も延期して、こうしてファイナルを迎えられて本当に嬉しいです。延期し過ぎてみんな今日だっていうことを忘れてるかと思ってたから、覚えててくれて、こうして来てくれて本当にありがとうございます」
と、中野サンプラザの時には全くしなかったMCを少しだけとはいえ挟んだのは、これが偽らざる牛丸の今の心境だからだろう。伝えたいことはしっかりと伝えるというバンドの意識を感じられるとともに、こうして牛丸が喋ったことで場内に漂う緊張感(それは制約だらけの今のライブだからこそのものも含めて)が少しほぐれたような気がした。
その言葉の後に演奏されたのが耳馴染みの良い、キャッチーな「センチメンタルシスター」というのがまた思い思いに体を揺らしたり腕を上げたりできるという意味でも実に良いタイミング、良い曲順だと思ったのだが(牛丸は思いっきり歌詞を飛ばしていたけど)、一転して轟音ギターサウンドが場内を覆う「悲しみはいつもの中」「顔で虫が死ぬ」を連発するというあたり、yonigeにはいわゆる決まりきったワンマンの流れという「序盤アッパーに始まって中盤に落ち着いた曲の聴かせるゾーンを作ってまた後半で一気に加速する」みたいな方程式が一切ない。そうした決まりをむしろ疎ましく思っているかのように自分たちなりのライブの流れを作り出している。だから中野サンプラザの時ともかなりセトリや曲順は変わっている。そうすることでライブ自体の印象や感触も全く変わったものになる。もしかしたら同じツアーに何本行っても全く飽きを感じないバンドなのかもしれない。
チャットモンチー(済)の福岡晃子がプロデュースしたことによって、まるで映画や短編小説のような情景を1曲の中に封じ込めることに成功した(牛丸と同様に福岡晃子も優れた作詞家でもある)「あかるいみらい」は決してわかりやすい曲ではないというか、むしろ第一印象は地味なイメージを持たれがちな曲であるが、だからこそ今のこの状況で聴くことによって、そうしたささやかな日常の風景を見ていられることこそが明るい未来そのものなんじゃないかと思う。そう感じさせる説得力を今の牛丸のボーカルとバンドの演奏は備えている。
するとステージ上にあるミラーボールが輝き出しながら回転するのは、1ミリたりとも踊れるような曲ではない、むしろyonigeの中でも屈指のバラード(又吉直樹の小説にインスパイアされている)「沙希」。そうした曲であるけれどサビでは
「だれも知らない さるのダンス踊ろう
忘れてしまう前に何度でも踊ろう」
と歌う。だからこそのミラーボールなのかもしれない。普通なら踊れないようなサウンドやリズムであるけれど、だからこそ誰も知らないダンスを踊るための。
牛丸がエレキからアコギにギターを変えて演奏したことによって、タイトルや原曲のサイケデリックさよりもオーガニックさや温もりを感じるアレンジになった「サイケデリックイエスタデイ」はその新しいサウンドが過ぎ去った昨日を懐かしく回想しているかのよう。これはある意味ではこの曲を「健全な社会」の曲と地続きのものにするようなアレンジとも言えるだろう。
その牛丸が曲中で歌いながらキーボードをも弾くという個人としての進化がバンドとしての進化につながっているのは「健全な朝」。そもそもバンドには元LI LI LIMITのメンバーとして鍵盤などの楽器に明るい土器が参加しているけれど、それでも牛丸がキーボードを弾くというのは牛丸の音楽的好奇心が漲った結果としてこの曲や「健全な社会」が生まれたということがよくわかる。もしかしたら牛丸もごっきんもこうしたギター、ベース、ドラムという既存のバンドの楽器以外の音が頭の中ではもっと鳴っているのかもしれない。
「雨ばっかの今週に
赤ばっかの信号に
嘘ばっかの妄想に
うなずくよ」
というフレーズがリーガルリリーの「ジョニー」のAメロ部分を引用している「また明日」は
「なんだっていいさ
負けっぱなしの僕らは
凡人でいいか
もう、なんだっていい」
という実にyonigeの2人のイメージらしい前向きな諦念が続く「どうでもよくなる」のメッセージと連なっていく。「2月の水槽」と「バッドエンド週末」が全く違う時期の曲をリズムで繋げたものだとしたら、この2曲はそれを歌詞で成し遂げている。飄々としているように見えてこうしたライブの組み立て方、見せ方、感じさせ方は本当に見事なバンドだ。余分な時間が全くないことも相まって観客の集中力が途切れることもない。
そして「健全な社会」の中でも随一のキャッチーなメロディを持つ「みたいなこと」が今この状況下のライブハウスで演奏されることで、ぼんやりとした微かな、でも確かなこの先の我々や音楽シーン、ライブハウスシーンへの希望を感じさせる。それが愛するということや、宇宙の果てがずっと続くみたいなことかもしれないが、この曲から牛丸のアコギと土器のエレキが複層的に絡み合う「ピオニー」へと至る流れは中野サンプラザでも見せた今のyonigeのワンマンライブのクライマックスと言えるものだが、
「もう1曲だけやって帰ります。ありがとうございました」
と言って演奏されたのは、轟音ギターノイズが我々の感覚を異世界へと誘うような「最愛の恋人たち」。ステージ奥にある、このライブ唯一と言っていい演出効果である照明が眩く明滅することによってさらに彼方へと我々を連れて行く。演奏が終わってメンバーがステージを去ってもこの音が残響として残り、それがそのまま余韻となっていた。
しかしすぐさまメンバーが再びアンコールで登場すると、牛丸が8月についに新作ミニアルバム「三千世界」をリリースすることを発表し、客席から拍手が起こると、その新作に収録される新曲を演奏。
牛丸のボーカルと刻むギターのみで始まってバンドサウンドへと展開していくというスタイルと、シンプルなAメロから複雑に動きまくるサビのごっきんのベースは「健全な社会」で獲得したグルーヴを、牛丸と土器のかき鳴らすギターと牛丸の伸びやかなボーカルは「girls like girls」までのyonigeらしさを感じさせる。つまりはその2つのyonigeの要素の融合を感じさせる曲。それをこの日に演奏するということは、延期しまくったことでなかなかはっきりとした決着をつけられなかった「健全な社会」からバンドがついに次のステージへと足を踏み出したということ。それがどんなものなのかをこの1曲が予見しているような気がしてならない。
そして最後は
「今年もお花見出来ないな
道の花びらを踏んで歩こう」
というコロナ禍になる前に書かれた歌詞が、去年の自粛していた春から何も前進することが出来なかった今年の日本の春を言い当てているように響く「春の嵐」。きっとこの曲をこうして最後に演奏して終わるライブもしばらくはないだろう。春の嵐は過ぎ去ってしまった季節だから。それでも、yonigeによる一世一代のお祭りはこれからもまだまだ続く。客席に向かって深々と長く頭を下げた牛丸の姿はデビュー時に
「ライブが好きじゃない」
と言っていた人とは思えないくらいに、ライブと、ライブで目の前にいる人に向き合うようになった人の姿だった。
このライブは結果的に去年から3回も延期されたが、それまでバンドは何もしなかったわけではない。ツアーも回ったしホールでライブもやったし牛丸は弾き語りツアーもやった。ただ結果的にこのライブだけが後に後に延期されてしまった。
でもここまで延期されたこの日のライブだったからこそ、この1年の間に止まることなく活動してきたことによって得てきた牛丸の歌唱、バンドのグルーヴ、「健全な社会」というアルバムの本質が最大限に引き出されたライブを見ることができたのだ。
今の制約の多くなったライブのルールも、4人編成になって以降のyonigeのライブに合わせるかのようなものになった(モッシュも合唱もしないがゆえに)のは実に不思議というかなんというかであるが、やっぱり君に会わなくたってどっかで息してるならそれでいいななんて思うよりも、こうして会える方が嬉しい。yonigeのライブを見ることで、日々は色づいた。
1.11月24日
2.リボルバー
3.最終回
4.ここじゃない場所
5.2月の水槽
6.バッドエンド週末
7.往生際
8.センチメンタルシスター
9.悲しみはいつもの中
10.顔で虫が死ぬ
11.あかるいみらい
12.沙希
13.サイケデリックイエスタデイ
14.健全な朝
15.また明日
16.どうでもよくなる
17.みたいなこと
18.ピオニー
19.最愛の恋人たち
encore
20.新曲
21.春の嵐
文 ソノダマン