ステージに紗幕を張ってそこに映像を投影し、観客は椅子に座ったままで綴られる物語に没入する。コロナ禍になる前からそんなライブのスタイルだったからこそ、この状況になってもamazarashiのライブはすぐに見れると思っていた。
しかし現実にはそういうわけにもいかず、amazarashiもまた2020年にリリースしたアルバム「ボイコット」のツアーを何度も何度も延期し、それでも諦めなかっただけにようやくやってきたこの日のライブはアルバムリリースからすでに約1年半が経過しているタイミングになった。
検温と消毒を経て場内に入ると、ステージにはやはりいつものようにamazarashiのロゴが紗幕に映し出されている。これを見るのも本当に久しぶりである。そう思うと、amazarashiのライブにまた自分が参加できているという感覚に少し精神が緊張感に包まれるのがわかる。何となくとかとりあえずという生半可な覚悟では受け止めきれない音楽とライブをやるアーティストだからだ。
まだ場内暗転前なので、18時50分くらいだろうか。すでに座って開演を待っていると、紗幕には
「私は私の○○ではない」
という言葉が秋田ひろむの声とともに次々に映し出されていく。その○○の内容は数え切れないほど多岐に渡り、「家族」や「友人」「会社」「学校」のような思いつきやすいものから、「ボニー」などの物語じみたもの、そして徐々に文章がその○○の中に入っていくようになるとともに、秋田の語気も強くなっていく。(おそらく録音してあるものだろうけれど)
すると紗幕に映し出される言葉にもノイズが混じり始め、そのまま場内が暗転していく。もはやここからがすでにライブだったのであろうか。その言葉は全てが「ボイコット」というタイトルに通じているように感じる。
紗幕の向こう側から、今この瞬間に目の前で鳴らされているバンドの音が響くと、
「応答せよ、応答せよ」
と秋田が言葉を綴り始める。「ボイコット」の導入部分と言える「拒否オロジー」である。歌唱というよりはポエトリーリーディング的な秋田のボーカルが次々に言葉を放つと、その言葉が紗幕に映し出されていく。
「都市の路地 文字起こし 星殺し 拒否オロジー」
という曲の締め部分の韻の踏み方は実に見事でありながら、「拒否オロジー」という単語はやはり開演前に次々に放たれた言葉を示しているものでもあると思える。
紗幕には言葉とともに夜の道路を車で走っているかのような映像も映し出されるのは「ボイコット」の流れ通りに「とどめを刺して」。
「立ち寄ったダイナーで 君と僕の顔写真 指名手配のニュース
「自分の気持ちを殺害したとされる男女二人が」
「計画的逃亡」
「服装を変えながら」
「知人の元を転々と」
ねえ カーラジオのボリュームを上げて
ねえ もっと上げて
最高な気分なんだ 笑いが止まらない
どこまでも行けそうだ どこまでも行けそうだ」
という歌詞はかつての「虚無病」ともつながるようなストーリーを感じさせるだけに、今後のライブや今後の物語ではまた違う役割を背負うような予感もするのだが、
「僕と逃げよう 命尽きるまで この世に恩義も義理もないさ」
というサビの部分のメロディの美しさと、秋田のファルセットボーカルの迫力。配信でも完全にamazarashiでしかできないライブをやっていたけれど、それでも久しぶりの有観客ライブだというのにそのボーカルの力は全く衰えていないどころか、むしろよりパワーアップしているようにすら感じられるし、それはギターを弾く挙動で今日も井手上誠(秋山黄色やビッケブランカなど)がサポートを務めているのがわかるバンドのサウンドもそうだ。紗幕越しであるが故に表情を見ることはできないけれど、こうしてamazarashiとしてライブができることの喜びが、鳴らしている音の躍動感から確かに感じられる。
すると紗幕にはアニメーションの少年と少女の姿が一瞬映し出される。それは明らかにここまでの2曲の流れとは全く違う、独立したものであるのだが、それはこのamazarashiの疾走感のある新曲である「境界線」が10月から主題歌となることが決定しているアニメ「86 -エイティーシックス-」の登場人物なのかもしれない。(アニメを見たことがないからわからないが)
その新曲すらもスクリーンに歌詞が映し出されるというのはいち早くこの新曲の世界に浸れる嬉しいものであるが、それはやはりアニメの内容とリンクしたものになっているのだろうか。「空に歌えば」や「さよならごっこ」という前例もあるだけに、アニメの主題歌として流れる瞬間を目にしたくなる。
「帰ってこいよ 何か成し遂げるとも、成し遂げずとも」
という「帰ってこいよ」の歌詞は情景の描写も含めて、今も青森県に住んでいる秋田だからこその呼びかけのようでもあり、自分自身にそう言っているようでもあるのだが、この世の中の状況下(なかなか帰省することができない人もたくさんいるという)となっただけに、紗幕に映し出されていくその言葉の一つ一つがより重いものとして感じられる。
そんな秋田の住む青森にやがて来たる季節の情景を感じさせるのは、ここまでの曲の中でははじめての「ボイコット」以前の曲である「初雪」。最初期の曲でありながらも最新の曲と並んでも全く違和感がないというあたりにamazarashiが初期から完成されたスタイルを持っていたということがよくわかるが、タイトル通りに紗幕には雪が降り、ステージ上に徐々に積もっていくというような映像が。それがどこか客席にいる自分の体も冷たくしていくのはその映像もあるけれど、ガーデンシアターの空調あるいは換気システムによって場内がかなり寒かったという要素もあったはずだ。
秋田による
「東京ガーデンシアター」
というこの日、この場所だからこその挨拶的な言葉が挟まれると、どこか秋に見られる紅葉が散っていくかのような映像がサビでのファルセットボーカルをより一層儚く感じさせる「アルカホール」であるが、今までに見てきたライブに比べると紗幕に映る映像はかなり控えめと言えるくらいに歌詞、言葉に特化したものになっているだけに、バンドサウンドというよりもトラック的なサウンドであるこの曲では秋田がギターを弾かずに歌唱している姿や、井手上もあまりギターを弾かずに立ったままで動かない姿がいつもよりハッキリと紗幕越しに見える。
そんな紗幕には水泡が浮かび上がってくるという演出によって、まさにこのガーデンシアターの内部そのものが巨大な「水槽」になったかのような感覚に襲われる。
「誰かそのエアーポンプの電源を切ってくれないか
さもなくば僕がそうする」
というフレーズまではリーディング的な歌唱だったのが、そこから一気にギターを筆頭としてノイジーなサウンドに転ずるというのはこの後の展開を示唆しているものなのかもしれない。
というのもその後に演奏されたのが「ボイコット」の中でトップクラスにロックなサウンドの「抒情死」だからであるが、
「アイデンティティが東京湾に浮かんでいる
巡航する豪華客船のその波で 浮遊してる やがて沈む」
という歌い出しのフレーズに合わせたような汚い東京湾の映像とともにやはり歌詞をメインに映し出される映像は
「受諾と拒絶 拒絶 拒絶 冷笑や脅し圧力にさえ
歪めること出来ない形と中身 ああ私の私
応答途絶 途絶 途絶 生き抜いたなら顔をみせてよ
徐々に蝕まれる暮らしの抒情詩 ああ詠い続けて」
という、まさにこのコロナ禍の中での分断や対立を経験して精神が蝕まれていく我々の今の生活を歌っているかのようだ。
そんな「コロナ禍」だからこそ曲の持つ意味が最も変わった曲はタイトルからしても「マスクチルドレン」だろう。紗幕にはマスクをした人々(この日の観客の姿だろうか)の姿が映し出されるというのは、コロナ禍前に描かれた
「僕は今日もマスクをして家を出る 口煩い東京から身を隠す為
言えない事を言わなかった事にする為
やれない事をやらなかった事にする為
そしたら僕の声も失くしてた 自分にさえ本音隠すようになってた」
という意味を持つこの曲が、総マスクチルドレン化してしまった今の世の中の状況を描いているかのように感じてしまう。秋田は実は未来から来た我々に警鐘を鳴らしに来た人物なのか、あるいは予知能力を持っていてそれを自身の音楽に落とし込むことができる人物なのだろうか。
そんな秋田による語りとも曲の入りとも取れるような言葉の後に、騒ぎ尽くした後の缶ビールなどが転がる映像とともに演奏されたのは、「ボイコット」の後にリリースされた「令和二年、雨天決行」収録の「馬鹿騒ぎはもう終わり」。
時期からしてもこちらはまさにコロナの影響を受けた後に作られた曲だと思われるが、騒ぎが終わった映像の描写は、こうしてみんなで集まってワイワイ飲んだりするということすらもできなくなり、それが終わった後の寂寞感を感じることもできないという今のリアルに我々を曝す。
それは
「壊れた世界泣きついて やっぱ僕らにはなかった
人の才能も そんな世界の解像度
今日も残酷の過密かき分け やるべきことに疲弊して」
と明らかにコロナ禍後の世界を描いた「世界の解像度」もそうであるが、それでも
「壊れた世界泣きついて 頭いかれても歌うぜ
思索の倍音と 響き合う世界の解像度
会いたかったと言いに来た 句点じゃなくここは読点」
と続く歌詞はamazarashiがこんな状況の中でも音を鳴らす理由であり、こうしてライブをやる理由そのものだ。
「会いたかったと言いに来た」
というその一言が目の前で歌われるとどれだけ頼もしく聞こえたことか。それはその言葉が刺さりすぎるくらいに今の世界の解像度を言葉によって言い表すことができるamazarashiだからこそだ。
しかし紗幕に映し出されてきた歌詞は重いバンドサウンドとともに秋田の口から発せられた「独白」で表示が変わる。隠された歌詞、それはかつての日本武道館ワンマンで紡がれたストーリー内で必要だった演出であり、それが剥がれ落ちることで剥き出しの言葉が並ぶのだが、やはりこの曲を演奏するとまたガラッと空気が変わる。それは秋田のさらに迫力を増す、紗幕越しにでもオーラが伝わってくる歌唱もそうであるが、やはり曲そのものが持つ力。秋田の言葉を信じる歌詞による力。武道館での「新言語秩序」をめぐるストーリーの登場人物たちの姿も頭をよぎる中、
「言葉は積み重なる 人間を形作る 私が私自身を説き伏せてきたように
一行では無理でも十万行ならどうか
一日では無理でも十年を経たならどうか」
という秋田の言葉への執着は、
「再び私たちの手の中に
今再び 私たちの手の中に」
という歌詞と、
「言葉を取り戻せ」
というリフレインに集約されていく。
「インターネットなどでありふれた、綺麗事のような言葉以外を使う者を取り締まる」
というのがこの曲が生み出されたストーリーの主題であり、「言葉を取り戻せ」というフレーズはその取り締まりに抗う者たちの合言葉であった。自分自身の言葉で自分自身を表現する、時には過激な言葉をも使う「言葉ゾンビ」の。
しかしそれはまさに今のコロナ禍の状況によってより顕著になってしまったSNS社会そのものだ。何か一つでも誤って伝わるような言葉や、自分とは異なる意見の言葉を徹底的に糾弾するような。そうした言葉が取り締まられたら、amazarashiは音楽を生み出すことが出来なくなってしまう。そんなこの曲で描いた「反抗」はそのまま今の世の中に対しての「反抗」にもなっている。それはきっと今後、どんな世界やどんな世の中になってもその世界や世の中に対してのものとして響くはずだ。
そんなクライマックスと言ってもいい曲の後に演奏されたのは、名曲だらけのamazarashi中でも屈指の名曲である「千年幸福論」であるが、
「千年続く愛情を 千年続く友情を 千年続く安心を 千年続く幸福を
僕らは望んで止まないけれど そんなもの何処にありましょうか」
という紗幕に映し出された歌詞が今まで以上に刺さるのは、この世の中になったことによって、千年続く友情も安心も幸福もないんだな、ということが可視化されてしまったからだ。
考えが違えば袂を分かち、まだまだこれからも元気な姿を見せてくれていると思っていた人たちも何人も居なくなってしまった。そんな思いを込めてか、秋田は
「終わりはいつも早すぎる」
というフレーズを
「逝くのはいつも早すぎる」
と変えていたように聞こえたのは自分だけだろうか。もし本当にそう歌っていたとしたら、秋田はこの状況になってからどれだけ近しい人とお別れしたのだろうか。
「終わりがあるから美しい そんなの分かりたくもないよ」
という直前のフレーズも、だからこそより突き刺さるように響いてきたのだ。
一転して穏やかなビートとともに
「涙こらえて立ちつくす 人の背中をそっと押してやる
どんな時だって優しい顔 そういう人になりたいぜ
「めんどくせぇな」って頭掻いて 人のために汗をかいている
そんで「何でもねぇよ」って笑う そういう人になりたいぜ」
と歌われる「そういう人になりたいぜ」は秋田がなれないタイプの憧れの人間像を歌っているようであるが、そういう人間にはなれなくても、秋田のような言葉を紡げる人間になりたい、そうした言葉で人に寄り添える人になりたいと思っている人はたくさんいる。この曲の持つ温もりはそうした人の気持ちを含んでいるような気がするのだ。
そして曲の歌詞のような言葉を張り上げるように口にしてから演奏されたのは、MVでは人気俳優が勢揃いしていることでも話題を呼んだ「未来になれなかったあの夜に」。
熱量を増していくバンドサウンドとともに、サビでは秋田のボーカルに豊川真奈美(キーボード)のコーラスが重なる。近年のライブでは参加していない時もあったりしたけれども、やはり豊川のコーラスがあるとないとでは曲の構造が全く違って聞こえる。それはとかく秋田のソロ的な見方をされることも多いamazarashiが、実際は豊川との2人組であり、活動を始めた頃も豊川の外交能力によっていろんな人に聞いてもらえるきっかけができたと秋田が言っていたことからも明らかだ。そんな豊川の存在がなかったら、未来になれなかった夜がまたたくさんあったのだろうということをその声を聞きながら感じていた。
そして秋田の
「大変な世の中になってしまいましたけど、物事は巡っていく。今日もライブができてよかったです」
と安堵の言葉を滲ませる言葉から、
「別れの歌です」
と言って最後に演奏されたのは、紗幕に映し出された様々に移り変わる電車の車窓からの情景が、このライブを終えた後にもまた違う場所へライブをしにいくように、音楽家がライブをするために各地を移動していくことを視覚的に表現したような「夕立旅立ち」。
スタイルゆえにこの状況でもすぐにライブができると思っていたamazarashiが、それでも今月になってこの「ボイコット」ツアーが始まるまではなかなかライブを出来なかったのは、動員人数の制限に翻弄されたりもあったのだろうけれど、こうして東京でライブをするためにも秋田自身が長い移動をしなければならなかったりという理由もあるだろうし、優しい人であるからこそそこへの葛藤も少なからずあったはず。それをしっかり抜けたというか、自身の中で答えが出たような清々しい別れの描写だった。それはきっと今度はまたすぐにこうして会えるだろうから。演奏が終わった後には紗幕に「ボイコット」のライブビジュアルが映し出されていた。
曲と曲や語りを繋ぎ合わせるというコンセプチュアルなストーリーのライブではなかったことで、より1曲1曲の独立した言葉に集中するという形のライブになっていたが、amazarashiのライブはいつも「今」そのものを歌っている。それはかつてのライブでもそうしたストーリーに合わせた形で過去曲を演奏することで、過去の曲すらも今の曲になっていた。
だからこそ、観客のライブへの向き合い方はコロナ禍になる前とは全く変わらないけれども、世界が変わってしまったことによって、amazarashiの曲とその歌詞が意味するもの、我々の受け取り方は間違いなく変わった。変わったことによって、「ボイコット」は、amazarashiの音楽はこのコロナ禍を生きる我々の主題歌になる。それがコロナ禍が明けた時にはどう響くようになっているのか。そんな未来の夜を観に行きたいのだ。
1.拒否オロジー
2.とどめを刺して
3.境界線
4.帰ってこいよ
5.初雪
6.アルカホール
7.水槽
8.抒情死
9.マスクチルドレン
10.馬鹿騒ぎはもう終わり
11.世界の解像度
12.独白
13.千年幸福論
14.そういう人になりたいぜ
15.未来になれなかったあの夜に
16.夕立旅立ち
文 ソノダマン