この日は行きたいライブが重なりまくっていた。そんな中でこの場所を選んだのは、ライブ自体の希少性もあるけれど、今最も素晴らしい音楽を作る1組だと思っているからである。それがヨルシカであり、この日は昨年リリースしたアルバム「盗作」のツアーのファイナルとなる東京国際フォーラム2daysの2日目。
もともとネットシーンから出てきたということを踏まえるともちろん若い観客が大多数なのだが、意外なくらいにもっと年上である人の姿もよく見かけるというところに今のヨルシカの音楽がお茶の間にまで届いているということを実感させるが、前回のツアーもチケットが取れなかっただけに、自分自身こうしてヨルシカのライブを見るのは初めてであるという緊張感を感じる。
やはりどこか静粛にならざるを得ない雰囲気の東京国際フォーラムの中に入ると、ステージ背面には青空の下で草原の中に咲く一輪の花が風で揺れている映像とともに、その場所で実際に聞こえているであろう鳥の鳴き声などが流れている。それは台風が過ぎ去って、手を叩きたくなるくらいに、君に晴れたこの日の関東地方の青空であるかのようだ。
開演時間の18時になるとブザーが鳴る。ああ、そうだ、東京国際フォーラムってこうやってライブ始まるんだよな、と久しぶりのこの会場でのライブの感覚を感じていると、それはまだ注意喚起的なアナウンスであったのだが、今回のライブは歓声はもちろんのこと、立ち上がることすら禁じられているという着席でのライブ観覧であることも改めて告げられ、より一層静粛な空気に包まれる。
その数分後に再度ブザーの音が流れると、場内は暗転してスクリーンに映っていた草原の映像が消える。するとステージにはキーボードのメンバーがステージ上手奥にすでにおり、音を鳴らし始めると同時にスクリーンには「盗作」のMVの出演俳優にして、「盗作」の小説、物語の主人公であろう男が椅子に座って日記を読んでいるような語りが始まる。
それはその主人公が「盗作」に手を染める前、若き日の記憶であり夢。かわいい猫が寝転がるのどかな田舎の風景と木で作られたバスの停留所。その上に真っ赤に咲き誇る、物語の中でも重要な役割を担う花である百日紅が映った瞬間に画面が真っ赤に染まると、その朗読が画面の中の録音されているものではなく、完全に今ここで呼吸をしている人間による抑揚のついたものに変わっている。キーボードの横のマイクスタンドでハットを被って徐々に語気を強めて朗読する長身痩躯のその男こそが、ヨルシカの首謀者にして作詞作曲から小説、物語までを手掛けるn-buna(ギター)であることがその瞬間にわかる。顔はやはりハッキリとは見えないくらいにステージは薄暗いが、ついにこの男の姿を自分の目が捉えることができたのだ。
朗読を終えるタイミングでステージにはすでに映像内で紹介されていたように、朗読の音を鳴らしていたキーボード以外にもギター、ベース、ドラムというメンバーたちと、ステージ中央に置かれた木製のベンチの前にはヨルシカの声を司るsuisの姿が。
やはり薄暗い中であるためにsuisの顔や表情もハッキリと見ることはできない中で、そのsuisの低いトーンのボーカルが、「盗作」リリース時にリスナーを驚愕させるくらいの表現力を持った「春ひさぎ」からスタートすると、
「言勿れ 愛など忘れておくんなまし
苦しい事だって何でも教えておくれ
左様な蜻蛉の一つが善いなら忘れた方が増し
詮の無いことばかり聞いてられないわ
言いたくないわ」
という古風な日本語の言い回しや
「駅前で愛を待ち惚け
他にすることもないし
不誠実の価値も教えてほしいわ」
という歌詞から、この女性がどんな生活をして生きているのかということがよくわかるし、そうした人のイメージを増幅させるような歌声を発している。
タイトル通りに部屋で反抗を夢想するかのような人物のアニメーションがスクリーンに流れる「思想犯」において、そのスクリーンから発せられる光によって、suisの髪色が青く発光していることに気付くのだが、サビでの一気に開放感を得るsuisのボーカルもさることながら、n-bunaはライブだとこんなにも感情的にギターを弾く人なのか、ということもよくわかる。歌詞や物語の緻密な構築性と、ライブでの音の鳴らし方は全く違う。ソロでも活動しているキタニタツヤのベースの躍動感もあって、完全にヨルシカのライブはロックバンドのそれである。
それは今年リリースされた、空のCDケースとデータを販売するというスタイル自体がコンセプトである「創作」の1曲目に収録されている「強盗と花束」においても顕著であるが、「映像や朗読などを使った物語」「私小説的な歌詞」「それをギターロックというフォーマットでやる」というヨルシカのライブのスタンスは自分がライブに行き続けているamazarashiと近しいものがあるし、その音楽が好きな自分のアンテナが反応したとも言えるのだが、amazarashiとは異なるのはamazarashiが2人組でありながらも歌唱まで含めて秋田ひろむが行っているのに対し、ヨルシカは歌唱をsuisが担っている。
そのsuisはこの曲では完全に男性になり切ったような、ステージを隠してライブが行われていたら、1曲ごとにボーカルが入れ替わっているんじゃないかと思うくらいの声の変化を見せる。
初期の頃はむしろそうした人間味の変化というよりも、ボカロ的と言えるような少女らしい歌唱のスタイルであったが、2019年の「だから僕は音楽を辞めた」「エルマ」という主人公が異なる2枚のアルバムを作り、インタビューでも
「「エルマ」っていうアルバムを作って歌う中で、自分自身がエルマになり切れたような感覚があった」
と語っていたが、その表現力の圧倒的な進化はこうしたライブという場になるとより顕著に観客の聴覚と視覚に突き刺さってくるし、その進化が彼女がTK from 凛として時雨のゲストボーカルに招かれたりしている要素にもなり得ているはずだ。
朗読、映像の第二章はやはり「盗作」の主人公が後に妻になる女性との記憶を思い返すという話なのだが、女性の言う「幽霊って信じる?」というセリフはこの後の展開、なんならクライマックスへの伏線でもあるのだが、その朗読と映像の間にステージ上のn-bunaはアコギに転換しており、椅子に座った状態で情熱的なアコギを響かせる「昼鳶」では男女の官能的とも言える映像についつい見入ってしまい、ステージ上のメンバーの姿もしっかり見なければと思うのだけれども、どうも目線が忙しい。
「盗作」の中でも重要なテーマの曲であると思っているソリッドなギターロック曲の「レプリカント」ではまるで映画のワンシーンのような雪の景色などの美しい映像が流れるのだが、
「そしたら心以外は偽物だ
言葉以外は偽物だ
神様だって作品なんだから
僕ら皆レプリカだ」
「僕らの心以外は偽物だ
言葉以外は偽物だ
この世の全部は主観なんだから
君も皆レプリカだ」
「言葉で全部表して
心も愛も書き足して
それでも空は酷く青いんだから
それはきっと魔法だから
いつか季節が過ぎ去って
冷たくなって年老いて
その時にやっとわかる
僕もその青さがわかる」
というサビの歌詞の展開は本当に素晴らしすぎて感嘆してしまうレベルであるし、そうした歌詞を書けるからこそ小説や物語を紡ぐことができるということがよくわかる。suisのボーカルも音響の良さで知られる(だからこそ会場使用料金が高いとも言われる)国際フォーラムの中に伸びやかに響き渡っていく。
百日紅が重要なテーマであるということはすでに書いたが、その様々な種類の花が次々にステージに映し出されていく「花人局」はそのタイトルも美人局に掛けたそのタイトルも秀逸でしかないが、その映像と歌詞が重なる様が、愛する人が居なくなってしまったという状況を想起させる。それが主人公のリアルな状況であることがわかってしまっているだけに。
2人で隣町の花火大会を観に行こうとしたら、電車が動いていなくて歩いて向かうという映像と朗読の中には
「ねぇ、前世って信じる?」
という女性から主人公への問いかけがあるのだが、その「前世」は1月に行われた、八景島シーパラダイスの巨大水槽前でのオンラインライブのタイトルであり、あのライブでのセトリ(ほとんどがこの日は演奏されていない)によって紡がれた物語が、この2人の前世だったのではないか、とも思うが、草原で主人公が女性の髪に一輪の花を挿したというモチーフもまた後の伏線になるとともに、実に美しい描写であると思う。
その朗読の間には転換が行われ、n-bunaだけではなく全員がアコースティックセットに。その編成で演奏された、ジャジーなテイストに乗せて歌われる
「夜が近づくまで今日は歩いてみようよ
隣の町の夜祭りに行くんだ」
という歌詞は映像、物語と完璧にリンクしているものであり、suisのハミングはまるでそうしながら歩いているかのようですらある。
一転してアコースティックなサウンドがポップの極みとでも言うような美しいメロディを奏でる「風を食む」はNEWS23の主題歌としてお茶の間にヨルシカの名前を広く知らしめた曲でもあるのだが、歌詞は現代を生きる人の生活というものであり、
「タイムカードを押して」
というリアリティに溢れる歌詞はここまでに紡がれてきた物語とはどこか切り離された世界で鳴っている、主人公が夢から一瞬覚めた現実の世界のことを歌っているかのようだ。
物語の中で女性が好きであると言っていた俳句を引用した
「はらはら、はらはら、はらり
晴るる原 君が詠む歌や 一輪草
他には何にもいらないから」
という歌詞が再び物語の中に、夢の中に戻ってきたような感覚を抱かせる「夜行」は
「波立つ夏原、涙尽きぬまま泣くや日暮は夕、夕、夕
夏が終わって往くんだね
そうなんだね」
などの曲の歌詞や単語が次々とスクリーンに映し出されていくことによって、花火大会を観に行くという通りにこの物語が夏であること、我々がこうした夏の景色をもう2年間も目に出来なかったことを実感させてくれる。その歌詞を歌うsuisの声は儚さというパラメータを振り切れるくらいに全開にしたかのように、その声でこの歌詞を歌うことによってその情景をリアルに浮かび上がらせてくれる。
suisの歌い出しとともに欠けた月がスクリーンに浮かび上がると、その月が徐々に満月になっていくという、まさに嘘のように美しい「嘘月」もそうであるが、ツアータイトルは「盗作」であれど、その後にリリースされた「創作」の曲たちがすでにこのライブにおいて重要な役割を担っているというのは、この2枚が2つで1つという性質の作品(それは「だから僕は音楽を辞めた」と「エルマ」もそうだったが)であるということと、このライブが昨年ではなくて今年になってから開催されたという必然性を示しているし、
「声はもうとっくに忘れた
想い出も愛も死んだ
風のない海辺を歩いたあの夏へ
僕はさよならが欲しいんだ
ただ微睡むような
物一つさえ云わないまま
僕は君を待っている」
「君の目を覚えていない
君の口を描いていない
物一つさえ云わないまま
僕は君を待っていない
君の鼻を知っていない
君の頬を想っていない
さよならすら云わないまま
君は夜になって行く」
という歌詞は、だからこそこの主人公が妻であった女性との思い出の夢を見たのではないか、と思えるものになっている。
朗読と物語もいよいよ佳境へ。花火大会の美しい映像も映し出されながら、それを見終えた2人は電車に乗って帰っていく。寝てしまった女性の髪には主人公が行きの道で挿した花が刺さったままで。それはこの日の夢が終わっていくことも意味していた。
そうした物語のうちにアコースティックから通常のバンド形態に戻ると、
「「音楽の切っ掛けは何だっけ。
父の持つレコードだったかな。
音を聞くことは気持ちが良い。
聞くだけなら努力もいらない。」
という歌い出しに合わせて、ステージ上からは砕けて壊れたギターなどの残骸が吊るされている。それはこの「盗作」のMVとも通じるものでもあるが、
「「ある時に、街を流れる歌が僕の曲だってことに気が付いた。
売れたなんて当たり前さ。
名作を盗んだものだからさぁ!」
という歌詞でのsuisの歌い方は欺瞞と嘲笑に満ちており、その声をもって完全にこの物語の主人公になり切っている。その主人公が迎える自己破滅的な結末は「盗作」の初回盤に封入されている小説に記されており、この日の朗読の物語はその小説の前日譚的なものであることもわかる。
ステージから客席にはレーザー光線が飛び交い、スタンディングでのライブであったらそれだけで観客の腕が上がるのが想像に難くない「爆弾魔」はもともとは2018年の「負け犬にアンコールはいらない」に収録されていたものを、この「盗作」の物語に合わせるように再録したものであるが、サビでのsuisの
「さよならだ 吹き飛んじまえ」
というフレーズの歌唱の迫力たるや。n-bunaも全く観客が声を出すことがないだけに、気合いを入れるようにしてギターを弾いている叫び声のようなものが微かに聞こえてくる。ヨルシカのロックバンドさがここにきて極みを見せているし、この物語の重要な存在である「百日紅」もこの曲の歌詞に登場するという意味では、過去曲でありながらも「盗作」という作品の軸になっている曲でもある。
そんなロックバンドさはn-bunaではないギタリストがアコギに持ち替えたことによって落ち着くのだが、そのアコギが奏でるのは「創作」の収録曲にして、2021年屈指の名曲「春泥棒」。
スクリーンには日本ならではの和の情緒を思わせる春としての情景のアニメーションが流れ、それが日本の春の象徴である満開の桜へと移り変わり、一瞬で季節を春に戻しては、それを一気に掻っ攫っていくという意味ではヨルシカが最大の春泥棒であるのだが、
「次の日も待ち合わせ
花見の客も少なくなった
春の匂いはもう止む
今年も夏が来るのか」
では男性の視点を、
「今日も会いに行く
木陰に座る
溜息を吐く
花ももう終わる
明日も会いに行く
春がもう終わる
名残るように時間が散っていく」
では女性の視点をと、同じ状況を逆のサイドから歌う、それを声を変えて歌うことで1人2役を果たしているという点では、前半で触れたsuisのボーカリストとしての表現力が、1曲の中で1人でデュエットしているかのようにさらに進化している。
映像や朗読、物語だけでなく、何よりも楽曲の素晴らしさと歌と演奏というライブの根幹がしっかりしているという、音楽そのものの素晴らしさがあるからこそ、この曲の演奏時には泣いているような人も周りに見受けられた。それがライブそのものの素晴らしさに直結しているし、これはヨルシカでしか見ることができない、総合芸術としてのライブの形である。
そうして「春泥棒」で春を盗んだことによって、次にやってくる季節は春だ。スクリーンにはこの日の冒頭の物語で映し出されていた猫やバスの停留所などが物語をまとめ上げるかのように再びスクリーンに映し出され、suisはこの日最も無垢な少女のような声で「花に亡霊」を歌い始める。この物語を、この夢を、この日のライブを、
「忘れないように 色褪せないように
形に残るものが全てじゃないように」
「忘れないように
色褪せないように
歴史に残るものが全てじゃないから」
音楽も、ライブも形には残らない。映像作品になったとしても、この日に客席にいたことで得た感情とは全く違う。だからこそ、この日のライブで感じたこと、聴いた音、目にしたものを忘れないように。スクリーンに映っていた美しい花火が、最後にはスクリーンだけではなくメンバーも含めたステージ全体にプロジェクションマッピングのように映し出される。それはきっとここにいた人が見たくても今年見ることが出来なかった、美しい日本の夏の風景であると同時に、
「言葉をもっと教えて 夏が来るって教えて
僕は描いてる 眼に映ったのは夏の亡霊だ」
という通りに、「盗作」の主人公が見ていた夢は夏の亡霊だったのかもしれない。
演奏が終わると、n-bunaを残してメンバーはステージを去っていき、オープニング同様に主人公が椅子に腰掛けて朗読が始まるのだが、それはn-buna自身が今ここで読んでいるもの。それはこの日来場者に配られた冊子「生まれ変わり」に繋がっていくものでもあるのだが、徐々に語気を強くしていったn-bunaは被っていたハットを最後には脱いだ。それは脱帽して観客に頭を垂れて感謝を示すものかと思いきや、次の瞬間にはそのハットを袖に投げ、同時にスクリーンには
「ヨルシカ「LIVE TOUR 2021 盗作」」
というこのツアータイトルが映し出されていた。その姿はライブ中はギターヒーローであり続けていたn-bunaがロックスターであるということを鮮烈に映し出していた。
まるでずっと読んできた小説が目の前で具現化されたような美しさだったが、この2daysは緊急事態宣言明けだったとはいえ、ツアー開催決定時にはそれは想定していなかっただろうし、実際に他の都市は緊急事態宣言真っ只中での開催だった。
そもそもがライブのスタイル的にフェスやイベントに出るようなタイプではないし、だからこそライブの本数自体も非常に少ない。そんなヨルシカが何故この状況下でライブを、ツアーをやろうと思ったのだろうか。
それはヨルシカの2人のミュージシャンとしての意地と誇りだったんじゃないだろうか。夏以降に再びあらゆるフェスやライブが中止や延期になり、あまつさえ音楽そのものの価値が再び問われるような状況になってしまった。
小説を書き、物語を綴るという意味では音楽でなくても生きていけそうでもあるn-bunaであるが、それでもその小説や物語はあくまで自分たちの音楽の表現を強化するためのものだ。そうして物語や演奏というあらゆる芸術性を音楽に掛け合わせることによって、音楽だけではなくて芸術に属するもの全てがどんな状況の世の中であれど、人間にとっては必要不可欠なものである。それを証明するための戦いであり、争いでもあったのがこの「盗作」というツアーだったんじゃないだろうか。
そんなライブだったからこそ、瞬きさえ億劫なくらいにステージを凝視せざるを得ないものになっていたし、やはり音楽は本当に美しいものであると確信できるものだった。このヨルシカの物語が続いていくことが、自身の人生を続かせていく原動力になっているという人だってたくさんいる。そう思わせてくれるのは、顔がハッキリとは見えなくても、suisの歌声とn-bunaのギターと朗読から、この人たちでないとこの音楽を作り出すことができないという人間らしさを確かに感じられたからだ。
ヨルシカが目の前で生きている人間であると実感できたこの夜を、忘れないように、色褪せないように。
1.春ひさぎ
2.思想犯
3.強盗と花束
4.昼鳶
5.レプリカント
6.花人局
7.逃亡
8.風を食む
9.夜行
10.嘘月
11.盗作
12.爆弾魔
13.春泥棒
14.花に亡霊
文 ソノダマン