コロナ禍になって延期を繰り返しながらも amazarashiは今年の9月からようやく久しぶりにツアー「ボイコット」を開始し(なのでツアータイトルに「2020」が入っている)、その久々の旅も終着に向かおうとしている。まだ秋田ひろむ(ボーカル&ギター)の地元である青森での振替公演が12月に残っているが、このLINE CUBE SHIBUYAでの2daysはツアーの追加公演であり、この日は2日目。
このLINE CUBE SHIBUYAはかつては渋谷公会堂(C.C.Lemonホールなんて名前に変わったこともあった)という名前で親しまれており、改装と建て替えを機にこの名前に変わったのだが、自分が初めてamazarashiのライブを見たのがまだキャリア2回目か3回目のライブだった渋谷公会堂ワンマンだっただけに、名前や内装が変わってもまたここにこうして戻ってこれたというのは実に感慨深いことである。
まだ暗転前である開演時間の19時前からすでにステージを覆う紗幕には
「私は私の○○ではない」
という、秋田による直筆であろう文字が次々に浮かび上がっていき、「家族」「親友」という関係性のものから、「売上枚数」「再生回数」「サブスクリプション」と音楽的な用語まで、およそ覚えきれないくらいの単語や文章がその○○の中に入っていき、徐々に映像が乱れるとともに秋田の語気も強くなっていき、場内が暗転…というのは9月に東京ガーデンシアターで見た時と変わらないので、ライブの流れとしてはその日のレポも参考にしていただきたい。
(http://rocknrollisnotdead.jp/blog-entry-926.html?sp)
というのもステージが紗幕に覆われており、そこに歌詞や映像が映し出されるというライブのスタイルであるamazarashiはその演出がある故に同じツアーでなかなかセトリや内容を変えられないからであり、そうしたライブの手法だからこそ、1つのライブで1つの物語を描くというコンセプチュアルなライブを、リリースした作品と連動する形で行ってきた。つまりamazarashiのツアーに複数公演行くということは、その物語を追体験するというものでもあるのだ。
暗転するとすでにステージ上にいた秋田がスポットライトを浴びながら朗読のように言葉を口にし、その言葉が次々に紗幕に映し出され、朗読から歌唱にボーカルスタイルが移行するとバンドの演奏がそこに加わる「拒否オロジー」から始まるというのはやはり変わらないのだが、東京ガーデンシアターの時は「ボイコット」収録というツアータイトルに即した選曲の「とどめを刺して」だった2曲目が早くも過去曲であり、タイトル通りに夕陽に照らされているかのようなオレンジ色の照明が眩しい中でやはり次々に歌詞が映し出されていく「ヒガシズム」に変化していることに驚く。
「瞳の色 肌の色 髪の色 互いを見ろ
僕が僕として生きてる理由を 身に纏う証明」
というフレーズはリリース時よりもより根強い人間の差別意識が露呈しつつある現在においてそれに続く歌詞の通りに「実存」として迫ってくるのだが、それと同時にスクリーンに映し出される歌詞が客席にまで迫ってくるように見えるのは、LINE CUBEの2階席から見下ろす形でステージを見ると、ステージと観客の間だけではなく、前後左右の四方が紗幕に取り囲まれているという、かつて日本武道館や幕張メッセイベントホールでセンターステージでの360°客席ライブで培われたメソッドがこのホールでも活かされているということがよくわかる。だから正面からだけではなく、両サイドからも言葉が飛び込んでくるような感覚になるのだ。
9月のライブ時はまだ真っ新な新曲という感のあった、文字通りにこちら側と向こう側の境目を描いた、ディストピア的なアニメタイアップというamazarashiの素養にピッタリな「境界線」はまさにこの日がシングルのリリース日であるが、すでに単曲では先月から配信されており、また東京ガーデンシアターでのライブ映像が先日公開されているということもあって、9月のライブ時の「なんだこの曲!?」という感じは薄れた感じもするが、その後に秋田のツアー終盤まで来ることができた感慨を感じさせる挨拶も含めた朗読も挟みながら、哀愁漂う歌詞とバンドサウンドによる「帰ってこいよ」が続くことによって、境界線まで行ってしまった友を案じるかのような流れに感じられるというのはamazarashiのライブ特有の曲と曲の繋がりである。
9月のライブ時には「今この曲を!?」と思ってしまった最初期曲「初雪」が演奏されていた5曲目には同じ冬の曲であるだけに、やはりスクリーンには雪が降るような映像が映し出されていた「真っ白な世界」に変わっていたのだが、間違いなく自分はこの曲をかつて渋谷公会堂だった頃のこの場所で聴いている。なんならその時には渋谷に雪が降っていたような記憶すらある。(amazarashiは複数回渋谷公会堂でライブを行っており、おそらくその時はこの会場での2回目のライブだったはず)
2daysの初日である前日も含めて、このツアーの他の箇所のセトリを見ていないのでわからないところもあるのだが、そうした思い入れや記憶があるからこそ、この日この場所でこの曲を演奏したんじゃないかとすら思う。もうすぐ真っ白な世界になるような季節が近づいていることを感じさせるような豊川真奈美のピアノサウンドはいつ聴いても本当に美しい。
その豊川と秋田を含めて、ギター(今や秋山黄色やビッケブランカのサポートでもおなじみの井手上誠)、ベース、ドラムが秋田を中央にして横一直線に並んだ編成になっているということも2階席から見下ろす形によってよくわかる部分であるのだが、秋田が弾き語りのように歌い始め、途中からバンドサウンドに転じるのはこちらも懐かしの選曲であり名曲である「少年少女」なのだが、この曲は「境界線」のシングルに再録されている。それはタイアップアニメがまさに少年少女の物語だからなのかもしれないが(アニメ自体は見ていないからよくわからないけど)、
「さよなら さよなら 思い出なんて消えてしまえ」
という曲後半での秋田の絶唱と言ってもいいような歌唱は、改装後に初めて来た時から本当に新しい会場なのかと思うくらいに音が良くない印象の強いこのLINE CUBEの音響を飲み込むくらいに素晴らしかった。そこはさすがキャリアの早い時期からこうしたホールでライブをしてきたamazarashiであり、それぞれの楽器の音もこの会場で聴いているとは思えないくらいにしっかりクリアに聴こえている。だからこそ紗幕に映し出される歌詞もより強く刺さるのだが、この「少年少女」が演奏された6曲目もガーデンシアターの時は「アルカホール」だっただけに、ライブを経ることによってセトリが有機的に変化を遂げてきている。それによってまた新しい物語を垣間見ているような感覚になるのである。
秋田の朗読がそのまま曲に繋がっていくという「水槽」でのまさにこのステージ、会場が丸ごと水槽の中に沈んでいるかのような映像から、
「アイデンティティが東京湾に浮かんでいる」
という歌い出しのフレーズに合わせるかのように決して綺麗ではないというか、むしろ東京の汚さの象徴とも言えるような東京湾の映像が映し出される「抒情死」の力強いバンドサウンドで鳴らされる
「形と中身 私の私」
というフレーズがライブ開始前の「私は私の○○ではない」という朗読と重なってくるあたり、この曲は「ボイコット」の背骨というか、タイトルを最も強く表していると言っていい曲なのかもしれない。
図らずも観客が全員マスクをしなくてはならない今の世の中の状況とリンクしてしまったことにより(曲で歌われているマスクの意味合いはコロナ禍になる前に作られた曲であるだけに今の状況を示しているものではない)、マスクをしてステージを見つめる観客の姿が紗幕に映し出される「マスクチルドレン」、宅飲みが終わって1人になった後の散らかった部屋の様子の映像とともに曲のタイトルと歌詞がそうして複数人や大人数で集まって騒ぐという行為が出来なくなって久しいコロナ禍以降のことを示しているかのような「馬鹿騒ぎはもう終わり」…。レコーディング自体はコロナ禍になる前に終わっていたはずの「ボイコット」の曲(「馬鹿騒ぎはもう終わり」はその後にリリースされた「令和二年、雨天決行」収録であるが)が驚くくらいに今の世の中とリンクしている。というかもはやこの状況になることを予期していたかのようですらある。それが「ボイコット」を2020年、いや、コロナ禍以降を象徴する作品たらしめている。もはやamazarashiにはそうした時代を引き寄せてしまうような強力な力があるかのように。
チルというよりは秋田のボーカルに豊川のコーラスが重なることによって、チルから現実に目を覚まさせるようなサウンドの「馬鹿騒ぎはもう終わり」から、同じく「令和二年、雨天決行」収録の、四角や円などの様々な図形が映し出されていく「世界の解像度」でバンドサウンドが再びロックに転じるのだが、
「壊れた世界泣きついて 頭いかれても歌うぜ
思索の倍音と 響き合う世界の解像度
会いたかったと言いに来た 句点じゃなくここは読点
その痛みや悔恨も 繋げば世界の解像度
何が見える 何が見える 何が見える」
という歌詞はやはりコロナになった後ということを感じざるを得ないけれど、秋田にとっては今の世界の解像度はその瞳にどう映っているのだろうか。
そして重く、どこか物々しいバンドサウンドから始まるのは、紗幕に映る歌詞が最初は隠されているのがどんどん剥がれ落ちて露わになっていく、かつての日本武道館ワンマンで曲の全貌が明らかになった感動が今なお残っている「独白」であるが、
「音楽や小説 映画とか漫画 テレビ ラジオ インターネット」
という秋田が愛してきたものとそれらに付随する言葉たち。それらはこのコロナ禍になったことによって不要不急と呼ばれることもあったものである。(特に音楽、ライブは)
しかしながら曲後半での秋田の絶唱的な
「今再び 私たちの手の中に
言葉を取り戻せ」
というフレーズの歌唱は、そうしたものが当たり前に存在できるような、こうして各地をライブで、ツアーで回ることができるような世の中や世界を、音楽と言葉の力で、amazarashiとしてのやり方で取り戻そうとしているようだった。これまでにも何度となく体と心を震わせてきた曲が、今の状況で聴くことによってまた新たな感動を与えてくれた瞬間だった。これからもこの曲はamazarashiのライブのハイライトたり続けるのだろう。それくらいにamazarashiという存在の本質と言えるような曲だ。
この中盤にかけては東京ガーデンシアターの時と演奏される曲は変わらなかったというか、変えることができない、変える必要性のない流ればかりだからだろうけれど、その時は実に久しぶりに聴いた、だからこそ響いた「千年幸福論」が「ライフイズビューティフル」に変化しているのだが、この曲の
「わいは今も歌っているんだ 暗い歌ばかり歌いやがってと人は言うが
ぜってぇまけねぇって 気持ちだけで 今まで ここまで やってきたんだ
これだけは本気でゆずれないんだ 背負ってるものが増えすぎたようだ
夢を諦めた人 捨てた人 叶えられず死んだ人 覚えているか?」
という歌詞はamazarashiがもう長い歴史を持つアーティストとなり、それだけにたくさんの人と出会ってきたこと、たくさんの人の思いをもらってきたこと、この会場を含めたたくさんの場所でライブを行ってきたこと。そんなamazarashiとして背負うものがあり、それがそのまま人生になっている。
「見ろよもう朝日が昇ってきた 人生は美しい
人生は美しい」
って素直に思えるような世の中が、状況が早く戻ってきて欲しいと、秋田の歌唱を聴きながら思っていた。
豊川のピアノと秋田の歌唱という形で、紗幕には豊川のピアノの音と連動するような鍵盤の映像が映し出されるのは「そういう人になりたいぜ」。途中からバンドサウンドが加わりながら、
「涙こらえて立ちつくす 人の背中をそっと押してやる
どんな時だって優しい顔 そういう人になりたいぜ
「めんどくせぇな」って頭掻いて 人のために汗をかいている
そんで「何でもねぇよ」って笑う そういう人になりたいぜ」
と秋田は自身の憧憬的な人物像を歌うのだが、じっと椅子に座って秋田の歌唱とバンドの音に耳を澄まし、映像を凝視しているというamazarashiならではのスタイルでライブを楽しんでいる人たちにとっては、そんなライブを作り出してくれる秋田こそが、そういう人になりたいぜと思える存在だ。それは人によって程度は違えど、少なからずamazarashiの表現に人生を救われてここにいる人たちばかりだろうから。
そんな秋田はここで、
「amazarashiを始めてからもう10年以上経ちました」
と話し始める。もうそんなに経ったのかとも思うけれど、この場所にあった渋谷公会堂に初めて立ったのすら、2012年という9年前。もうそれだけ長い付き合いになり、ずっとこうしてライブを観続けてきたアーティストなんだなと感慨を感じていると、
「いろんな方がいらっしゃると思います。最近知ってくれた方も、昔からずっとライブに来てくれている方も、昔は来ていたけれど最近は来ていないという方も。
でもわいたちはずっとこうして音楽を鳴らして旅を続けていきます。その先でまたいつか来てもらえることがあるんならば、いつでも待っています」
と続けた。それはイベントやフェスにはあまり出ないが故に本数は少ないながらも、amazarashiがライブを、ライブで出会った人たちを心から大切にしているということであり、amazarashiの曲の数々から感じる温かさ、秋田の優しさが滲み出ている。時には痛烈に社会を批判する曲を作ることもあるが、それもきっとこうして目の前にいてくれる人を守りたいという意識が働いている。「そういう人になりたいぜ」を聴いた後だからこそ、より強くそうしたことを思う。
そんな言葉から続けるように演奏された「未来になれなかったあの夜に」は横浜流星をはじめとした豪華俳優陣が出演するドラマ仕立てのMVも話題を呼んだが、曲が後半になるにつれてさらにダイナミックに、壮大になっていくバンドサウンドと秋田のボーカル、豊川のコーラスが、去年の全くライブを観れずに家にいたような夜でさえもこうした夜に繋がっているというか、そうした夜があったからこそ、こうしてライブが観れている喜びと愛おしさをより強く感じられるのだと思う。ライブのスタイル的にコロナ禍でもすぐにライブができるんじゃないかと思っていたamazarashiをこんなに長い時間観れないなんて思っていなかったから。
そうしたクライマックスを迎えてライブが終わってもおかしくない中、秋田が瞬時にギターをアコギに変えると、
「終わりは始まり」
という過去の曲タイトルにも通じる言葉を口にして、終わりが見えてきたこのツアーの後からまた新しいことが始まるという意味をそのまま曲に込めるかのように「夕立旅立ち」ではまるで我々がamazarashiとともに旅をしているかのように、電車の車窓からの景色が紗幕に映し出されていく。それが地方ののどかな風景から徐々に都内と思しきビル群の中に入っていくという曲とともに進む景色が、旅を終えて帰ってきたということを示していた。それがまた新たな旅の始まりであるということも。
「ツアー「ボイコット」、LINE CUBE SHIBUYA、青森から来ました、amazarashiでした!」
と言って紗幕越しに秋田がギターを振りかぶり、バンドとともにキメを打った瞬間、場内が暗転して紗幕にはamazarashiのロゴが映し出された。
メンバーへの拍手が鳴り響く(ホールだからというのではなく、本当に大きな拍手が響いていた)中、会場には終演を告げるSEとして「境界線」のシングルのカップリングに収録されている「鴉と白鳥」が流れた。「かぞえうた」などにも通じる、何でこんな凄い曲をカップリングに!?と思ってしまうくらいの、映画のタイアップになっていてもおかしくないくらいにサビで壮大に秋田が歌い上げるこの曲も、次の旅では目の前で演奏する音を聴けるかもしれない。曲が流れ終わるまでじっと聴き、終わった後には拍手を送っていた観客たちはみなきっとそう思っていたはずだ。
コロナ禍になってライブが次々になくなっていった去年の夏頃、amazarashiは先陣を切ってライブをやるんじゃないかと思っていた。1席空けてキャパを減らせば、声を出さないどころか立ち上がることさえない、アクリルボードよろしくステージと客席には紗幕という仕切りがある。そんなライブゆえに、やろうとすればamazarashiはスタイルを変えることなくライブができると思っていた。
でも地元凱旋となる青森のライブが最後に残った今になって思うのは、自身も青森で生活している秋田はコロナ禍で他県にライブをしに行って青森に帰ってくるということが出来なかったんだろうなということ。それは自身の住む青森を守るための選択だったということが今ならよくわかるし、青森に住んでいるからこそ、青森に住んでいる他の人を不安にさせるようなことをしなかったのだろう。
そんなamazarashiがコロナに見舞われてからの世界で鳴らす音楽は、やっぱり「今」そのものだった。これまでにも過去の曲を最新の物語に組み込むことで、それらの曲を「今」のものにしてきたamazarashiだからこそ、全ての曲が今の時代と世界を生きる人々のための凱歌であり、応援歌になっていた。
それはこの先にどんな世の中やどんな時代になっても変わることはない。もう出会ってから10年ほど。その中でいつだって「今」を感じさせてくれたamazarashiのライブは、やはり令和三年の「今」そのものだった。
1.拒否オロジー
2.ヒガシズム
3.境界線
4.帰ってこいよ
5.真っ白な世界
6.少年少女
7.水槽
8.抒情死
9.マスクチルドレン
10.馬鹿騒ぎはもう終わり
11.世界の解像度
12.独白
13.ライフイズビューティフル
14.そういう人になりたいぜ
15.未来になれなかったあの夜に
16.夕立旅立ち
文 ソノダマン