もう8年も前になるらしい。スペシャを見ていたらCMでカッコいいバンドの曲が流れていた。それは「ONE EYED WILLY」というアルバムをリリースした、THE PINBALLSという4人のロックンロールバンドのリリースツアーのCMであり、その時に流れていた「片目のウィリー」という曲が出会いだった。
去年のコロナ禍にはアコースティックアルバム「Dress Up」のリリースとツアーを、今年に入ってからは昨年末にリリースした「millions of oblivion」のツアーを開催し、そのツアー初日の千葉LOOKでのライブで古川貴之(ボーカル&ギター)はコロナ禍になって制限が多くなったライブハウスでライブをやった時にも
「これでも俺たちやっていけるなと思った」
と口にしていたし、ツアーファイナルの渋谷O-EASTでのワンマンはキャパを減らしているとはいえ満員となり、それに見合う堂々たるライブを見せてくれただけに、「これはこれからもっとデカいところまで行けるな」と思った。
それはこんなにも早く、しかし全く予期しない形で叶ってしまった。7月になるとバンドは15周年記念ライブを過去最高規模のZepp DiverCityで開催することを発表。それと同時に活動休止することも。その最後のライブがついに訪れてしまった。こんなにどんな気分で観ればいいのかわからないライブは本当に久しぶりだ。
検温と消毒を終えてDiverCityの中に入ると、平日にも関わらず物販は並んでる間にライブ始まるんじゃ?って思うくらいに列が長くなっている。最後に買ったものをまた再開した時まで持っていたいというファンの気持ちがそこからうかがえる。
客席に入るとステージには「15th Anniversay」という文字とロゴ、その下にはライブタイトルが描かれた巨大な紗幕がかかっている。
開演時間の19時を少し過ぎた頃になると、場内が暗転して紗幕にはこれまでにTHE PINBALLSが行ってきたライブの日付と会場名が次々に映し出されていく。その文字の裏には歴代のアーティスト写真がこちらも順番に映し出されていく。15年の歴史。それをこれでもかというくらいに感じさせる、今までにないオープニングだ。同時に、これが本当に最後であるということも。
その映像の時に鳴らされていた音が紗幕の裏から鳴っていたのがわかった。それはメンバーが鳴らしている、すでにステージにいるのだと。実際に紗幕が落ちるとステージにいつも通りに黒のスーツで固めたすでに4人がおり、瞬時に「片目のウィリー」が鳴らされる。まさかこの曲で始まるとは。前回のツアーでは最後に演奏されていたし、そういうポジションの曲だ。でも自分のように、この曲がTHE PINBALLSとのはじまりの曲だったという人だってたくさんいるはずだ。そう考えると最後のライブをこの曲で始めたというのも納得がいくところであるし、冒頭から鮮やかな金髪の中屋智裕(ギター)はステージ前に置かれたお立ち台に立ってギターを弾き、森下拓貴(ベース)が自身のアンプの上に立って演奏しているというのもこれまでに何度も見てきたTHE PINBALLSのライブの光景であるけれど、それも現状では最後、この曲をライブで聴けるのもこの日が最後だと思うと、
「二人は笑いながら 涙を流しながら」
というフレーズをとても笑いながらなんか聴けない。冒頭から涙が流れてしまいそうになる。それでも、照明の効果もあってか、ステージ上の4人はいつもと変わらないくらいに、なんなら過去最高にキラキラして見える。観客はライブが始まって席から立ち上がることすらも「始まってしまう…。そうしたら終わってしまう…」というように覚悟が決まらない感じもあったし、それはそうなるだろうと思うのだが、メンバーたちはこの日を待っていたようにすら感じられる。
そんな空気はソリッドなサウンドの、これぞロックンロールバンドと思わざるを得ない「ママに捧ぐ」、さらにはTHE PINBALLSをロックンロールバンドの中でも独自のものに昇華した、古川による中世ヨーロッパの世界観を感じさせる歌詞による「ヤードセールの元老」という同時期の曲が続く。基本的にTHE PINBALLSはリリースツアー以外でワンマンライブをほとんどやらなかったバンドであるだけに、こうして過去の曲が聴けるというのも貴重な機会であるのだが、それがこうした休止前最後のライブで感じられるものになってしまうとは。
森下が
「いつものように最高の夜にしようぜー!」
と叫び、やはりアンプの上に立つと、バンドのグルーヴを1段階上に引き上げた「時の肋骨」のリード曲である「アダムの肋骨」で中屋はクールさは全く失わないままで身を捩るようにしてギターを弾き倒している。アルバムがリリースされた時の青山月見ル君想フでのアコースティックライブも実に懐かしい気持ちになる。Oasisのカバーとかもやっていたなって。
「道が辿れなくたっていいさ
君が待っているのなら
行く先はひとつだ
荒れ地を選んで這ってゆけ
一滴の血も 涙もいらない
ただ好きな色に 胸を焦がしてゆくんだ」
という歌詞が今この状況で聴くとまた違う意味を持つというか、THE PINBALLSというバンドの歩みそのものであったかのような「ICE AGE」とやはり初期の曲が多いのが嬉しくもあり、切なくもある一方で、近年のこのバンドはアニメなどのタイアップ曲もいくつも手がけており、その曲とアニメの世界観の一致っぷりはアニメファンからも称賛されていたが、そのタイアップの中でも最大級のものである「ニードルノット」で不確かなリズムが打ち鳴らされることによって観客は飛び跳ねまくり、中屋も軽やかにステージ上を歩き回りながらギターを弾く。本当に「颯爽と」という言葉がこれほど似合うようなロックンロールバンドのメンバーもそうそういないなと最後までそのカッコ良さには痺れてしまう。
中屋はこれからどうするんだろうか。ギタリストとしてもどこでだって活躍できることは間違いない男だし、バンドをやろうと思えば集まってくる人も、逆に誘われることだってたくさんあるだろうし、プロデューサー的な立ち位置で音楽と関わっていくことだってできるだろう。願わくば、ずっとギターを弾いてる姿をこのバンドで見ていたかったけれど。
森下がアンプの上に立って片足をマイクスタンドに乗せるというパフォーマンスを全国のあらゆる場所のライブで見せつけてきた「CLACK」の獰猛なロックンロールサウンドでさらにステージも客席もギアが一つ入れ替わるような感覚になり、その森下はサビでは叫ぶようにしてコーラスを歌っている。そんな様々な場所で演奏してきた曲もいったんはこの日で最後だ。だからこそ全てを出し尽くす、自らを燃やし尽くすようなパフォーマンスを見せている。
中屋のギターリフが引っ張る、真っ赤な照明がステージを照らす「マーダーピールズ」という最新期の曲では獰猛なロックンロールを、初期の「SLOW TRAIN」では哀愁をそのサウンドから感じさせるのだが、かつては喉の不調でライブが出来なかった時期もあった古川のボーカルがそんな曲の雰囲気、空気をより強く感じさせるものになっている。ツアーが終わってからはほとんどライブもやってこなかったけれど、このライブに合わせてきた、最高の最期を迎えようとしていることがその声の調子の良さから実によくわかる。
それをよりしっかりと感じさせるように、ミドルテンポの曲ならではの抑揚をしっかりとつけて歌う「DUSK」の、
「さまよい続けた 夕闇のまぼろしで
どこかで 湖に 風が吹いている事だけを知っている
さまよい続けた さびしげなやじるしで
どこかで 君の事を 待っていた事だけを おぼえてる」
という古川の文学性がこれでもかというくらいに炸裂している歌詞を聞いていて、我々もこれからTHE PINBALLSの事を待っていたことだけを覚えている、って思える日が来るんだろうかということを考えていた。
THE PINBALLSのライブはいつも本当にあっという間に終わってしまう。それは曲自体が短い、曲と曲の間がほとんどない、楽器を変えることすら全くしない、MCもほとんどしないというストイックなスタイルによるものでもあったのだが、ここで古川は
「15周年っていう時にハッピーだけじゃない感じになってしまって申し訳ないなと思ってるんだけど、いつだって次はないかもしれない、これで最後かもしれないと思ってライブをしてきた」
と自分たちのスタンスを語るのだが、それが本当にその通りで揺るがなかったと思えるのは、同志と言えるような、a flood of circleやビレッジマンズストア、Large House Satisfactionというロックンロールバンドたちがひたすらにライブをやりまくってまた明日へ向かってきたのとは対照的に、THE PINBALLSはツアーが終わったりするとなかなか次のライブがいつになるのかわからないという、決して毎日のようにライブをやりまくるようなバンドじゃなかったからだ。それはもったいなくもあり、今になってみれば少しは納得ができるような。
そんな僅かなMCにも様々なことを思い出させたり感慨に浸らせたりする中で、タイトル通りにロックンロールバンドの中でも群を抜いてロマンチックな古川の趣向が強く表出した、しかし甘いだけのラブソングにはならない「sugar sweet」の味を噛み締めさせると、森下の歌っているかのようなベースラインと、シンプルなドラムセットでタイトなビートを刻む石原天のリズムが描き出す情景が素晴らしい「沈んだ塔」では、先んじてスーツのジャケットを脱いで白シャツ姿になっていた石原がこんなに良いドラマーだったのかと思わざるを得ない。1番口数も少ないし、縁の下の存在というかドラマーらしいドラマーであったが、その存在感の強さはやはりこうしたライブでこそ実感できるものである。
その石原による4つ打ちのキックに合わせて観客も手拍子をし、DiverCityの天井からぶら下がるミラーボールが色とりどりの照明に照らされて美しく輝き、
「踊れない日が続いたんでしょ!今日は踊ろうよ!」
と古川が言って、THE PINBALLS随一のダンスナンバーである「ダンスパーティーの夜」では観客がようやく最後のライブという緊張感から解放され、踊ってもいい、楽しんでもいいんだ、とライブへの向き合い方が変わったように飛び跳ね、体を揺らして踊る。それはやはり誰よりもステージ上のメンバーが楽しそうに自分たちが信じてきた音楽を演奏していたからだ。
ロックンロールバンドでありながらもこのバンドがアニメタイアップなどでお茶の間やライブハウス以外の場所で出会う人をたくさん産んだのはそのキャッチーなメロディあってこそである、とわかるのがかつてはアンコールで演奏されることも多々あったくらいにバンドもキラーチューンであることを自分たちで理解していたであろう「まぬけなドンキー」から、季節外れの夜風が爽やかに吹く「way of 春風」であるが、
「夜風 夜風 僕の街へ
さよならを 届けておくれ
観覧車が回るたびに
君を思い出すけど
僕は帰らない」
という古川の春のきらめきや輝きの中にある別れのシーンを思わせるようなサビの歌唱を聴きながら、いや、まださよならは届けないでおくれよ、と思っていた。この曲をこの最後のライブで聴いたら、どこかで観覧車が回るのを見るたびにこのライブを、THE PINBALLSというバンドのことを思い出してしまうじゃないか。
でも何故今になって活動休止を選んだのだろうか。それを古川は、
「もうダメだって諦めたわけじゃない、前に進むための選択だから。俺以外の3人は本当にサボることをしない、真面目な奴らなんだ」
と涙を隠すことなく口にする。そんなに泣くくらいに悲しいなら続ければいいじゃないか。15年間のうちのほとんどの年月を占めていた長い雌伏の時も、古川が喉の不調で休まざるを得なくなって、2年前のロッキンで復帰した時には中屋が
「この4人でいるのがやっぱり自然なんだと思う」
って言ってたくらいに、ずっとこの4人でいたから乗り越えられたことがたくさんあるんじゃないか、とも思うけれども、今年リリースされた15周年記念のベストアルバムとでもいうような「ZERO TAKES」のブックレットのインタビューでメジャーデビューの話が来た時にすでに活動休止した方がいいんじゃないかとメンバーで話していたということが語られていた。今じゃなくても、ずっとその選択肢がこのバンドにはあったということだ。ここ数年は特に「さぁここからだ!」というムードがバンドからもファンからも強く感じられていただけに、その可能性を孕んでいたということは本当に意外だった。
そんな古川の言葉はどうしたって観客側にも感傷という感情を与えてしまうのであるが、それが蜜蜂の巣を撃ち落としてしまった、どこか終わってしまった感慨に耽るような「蜂の巣のバラード」の歌詞に重なっていく。演奏されるのも実に久しぶりな曲だと思うけれど、まさかこんな心境で聴くことになるとは思ってなかった。
中世ヨーロッパ的な世界観の歌詞が多いこのバンドの曲にあって、やはり物語としての歌詞ではあるのだがそこから想起される情景は珍しい「和」のものというか、日本にある島の風景であるのは「樫の木島の夜の唄」であり、短い曲が多いこのバンドの中でも屈指の大曲と言える曲でもある。
「君は無駄だって思うかい
だから今夢を見ること」
というフレーズが、古川のMCでの言葉と重なって、今もこのバンドが夢を諦めていないことを感じさせる。今は少し眠るだけだからというような。それが最後の
「GOOD NIGHT」
というフレーズから感じざるを得ない。
そうした久しぶりにライブで聴く曲が実に多くなったこの日の中でも個人的にはトップクラスに「この曲を聴けるのか」と思ったのは「20世紀のメロディ」だ。
「21世紀は20世紀の悲しみを奪い去って
21世紀は20世紀の暗闇を照らしだして
愛してたけど 雨に打たれて
消えてく
20世紀のメロディ」
というフレーズは「20世紀のメロディ」が去っていくこのバンドの音楽そのものという鎮魂歌であるかのようであるが、
「神様と並ぶには 小さすぎる身体で
風に吹かれよう 震えながら歩こうぜ」
という文学的極まりない歌詞で、21世紀になっても色褪せることのないメロディのこの曲は
「さよなら20世紀のメロディ
聴こえる20世紀のメロディ
愛してる20世紀のメロディ」
と最後に歌われる。それはバンドが自分たち自身に向けて歌っていたかのようでもあった。
しかしそんな感傷を吹き飛ばすように古川が
「声出せないけどさ、ジャンプはできるから!俺より高く飛べるかー!」
と言って間奏で観客とともに飛び跳ねまくると、ステージにも客席にも笑顔が広がっていく。本当に最後のライブの空気なんだろうか。ただただ15周年を祝うというアニバーサリーなライブなんじゃないだろうか。メンバーの背後の照明がタイトル通りに虹を示すようなカラフルなものになっていたのが、余計にそう思えたのだ。
だからか、古川は
「活動休止最後のライブで言うのもおかしいかもしれないんだけどさ、俺は全然諦めてないんだ!」
と言った。こっちだってそうだ。もっととんでもない音楽を聴かせてくれる、もっと凄い景色を見せてくれる、もっとたくさんの人がTHE PINBALLSのことをカッコいいって思ってくれる。それを諦めたことなんか一度もなかったし、それが最後のライブでも変わらずにそう思えたのは森下がアンプの上に立って「ようこそこの館に」と言わんばかりにお辞儀をし、中屋が両腕を大きく広げてから演奏した「蝙蝠と聖レオンハルト」のあまりのカッコよさによるものだ。
だからこそ「こんなにもカッコいいライブができるのになんで止まってしまうんだ」とも思ってしまう。いつか活動再開する日が来たとしても、今のバンドが持っているグルーヴはライブをやらないうちに、4人で会わない間にゼロに戻ってしまう。しかしながらそれを望んでいるかのように森下が
「最高のゼロに向かって進んでいこうぜー!」
と叫び、バンドのこれまでの生き方であり、これからもそうやって生きていくという覚悟を歌うかのような、石原のドラムのリズムが実に荒々しい「七転八倒のブルース」が鳴らされる。4人は今のバンドの能力や経験やライブの強さがゼロに戻ってしまうことを承知でそこに向かおうとしている。古川の言葉からは迷いもあったように見えたが、もう4人の腹は決まっているのだろう。
だからこそ
「歌うなら 劇薬が歌うように
剃刀が虹を切り刻むように
演じるわ さあ終わりまで舞台を
忘れさせぬように」
という、まるでこの4人がこの曲を演奏している姿が何かの映画のエンディングとして使われてもおかしくないような美しさの「ブロードウェイ」の歌詞はこのバンドのロックンロールもまたこの舞台を忘れないようにという演技だったのだろうかとも思うけれど、「毒蛇のロックンロール」でのドス黒いグルーヴとこのタイトルの曲はやはりロックンロールを選び、ロックンロールに選ばれたバンドでないと絶対に出せないものだと思う。
「もっと恐ろしい場所へ行こう」
このZepp DiverCityの先にどんな場所が待っていたのか、見てみたかった。
もはや森下が聴き取れないくらいの気合いを込めて叫んでからタイトルコールをする「carnival come」での古川のロックンロールを歌うための声による歌唱の素晴らしさは確実に最後にして過去最高を更新していた。この声を持っているからこそ、古川には歌い続けていて欲しいし、出来ることならそれがロックンロールであって欲しいと思う。
そんな古川のボーカルのみならず、バンドの演奏が25曲という完全にバンドにとっての未体験ゾーン(20曲もやらないであっという間にワンマンが終わるバンドでもあった)に突入してもさらに迫力を増す一方なのが、
「金を借りてるままの
恐ろしいブリトー兄弟が
きっとやってくるぞ 逃げ場はないぞ」
というサビに固有名詞を用いた歌詞がその状況のスリリングさを感じさせながらも、このライブが始まる前のメンバーの心境は
「さあショウを始めよう
もう後がないやつらのため」
というものだったんだろうか。後がない、次がないのはバンドも我々もそうだ。このライブが終わったらこんなにカッコいいロックンロールを生で浴びれることはなくなってしまう。
そんなことすら思ってしまう我々観客に古川はかつては5人とかの数えられるくらいしか観客がいなかったことを振り返りながらも、それでも寂しくなかったのはこの3人が、こうして見に来てくれる人が、スタッフがいてくれたからだということを口にして、
「ひとりぼっちじゃなかった!」
と言って「ひとりぼっちのジョージ」の
「それは 君が僕に出会うまでの
僕が君に出会うまでの
永い永い夜にも似ていた
星がひとつ見えることが 目の前にあることが
消えそうなこの命を運んだ」
という、我々がTHE PINBALLSというバンドに出会ったことが運命だったかのような歌詞を歌う。
しかしその運命的な出会いがいったんの終わりを迎えようとしているという、忘れたいような、でも忘れさせてくれないような事実が
「でも春雨告げる風の中で
踊るおまえを思い出せる
春時雨ゆく 時の中で 何もなかったように」
という「ミリオンダラーベイビー」の情景で脳内に浮かび上がってきてしまう。何もなかったように終わってしまうのか、バンドがいないのが当たり前になってしまったのかと。
でもなんだか最後には全てを受け入れられたような気持ちにもなったのは、最後に演奏されたのが
「僕が とても好きだった夜の街の風景のような心で 歌う人がいる
朝を まだ遠くに眺めながら 僕は聞いた
凍るようなこの胸の中を 照らす人がいる
ロックンロールに」
という歌詞による「ニューイングランドの王たち」だったからだ。この日演奏された様々な曲の光景が走馬灯のように頭によぎるのはその曲たちの歌詞がこの曲の中に含まれているからであるが、
「ロックンロールに 人々は踊った そしてロックンロールに 眠る王たちよ」
という歌詞もまた、これまでのTHE PINBALLSのライブで踊ってきた人たちの光景を思い出すかのようなものであり、そしてTHE PINBALLSというロックンロールバンドが王となっていくような。そんな終わりゆくこのバンドをバンド自身が見送るような選曲であった。
しかしながらやはり最後のライブがこれで終わりというのはどうにもまだやり切れないのは、本編だけで28曲もやっているのにまだ聴きたい曲がたくさんあるからで、その思いが観客の拍手の強さにしっかりと乗っていたのだが、いざステージに現れたメンバーは古川と森下がジャケットを脱いでシャツ姿になっており、古川は
「石ちゃん(石原)が泣いてた(笑)
セカンドアルバムができた時も石ちゃんが泣いていたのを思い出した」
と言いながら、古川も完全にもらい泣きをしてしまい、声には涙が混ざっていたように聞こえた。そんな思いを歌に乗せるように、アンコールでは
「もしももう一度
唄を唄うなら夕暮れに舞う町のように」
という、もしかしたらまたこうして古川がTHE PINBALLSというバンドで歌う姿を見ることができるじゃないかとすら思ってしまう、キラキラとしたポップさを持った「ワンダーソング」を演奏する。そう思えるのはこの曲が
「だから願い事を 願うことを
忘れないでおくれ」
と歌って締められるから。だからまたこうしてライブが見れるまでは、THE PINBALLSのライブがまた見れますようにという願い事を願うことを忘れないでいようと思う。
そう願ってもまだこのライブは終わらないことをわかっていたのは、昔からこれまでに至るまでに何度となく演奏されてきた曲がまだ演奏されていないから。それは近年のツアーなどでも欠かさずにアンコールで演奏されていた「アンテナ」がその最たるもので、今とは全く違う整理されていないような粗さを感じさせるロックンロールサウンドが鳴らされ、観客も自分たちがずっと見てきたTHE PINBALLSのライブがこうして今目の前で最後の輝きを放っているということを実感していたはずだ。
それはガレージと言っていいくらいに荒々しいロックンロールとして鳴らされた「十匹の熊」もそうだった。アコースティックも含めていろんなサウンドを取り入れたり挑戦したけれど、やっぱりこうしたロックンロールだと感じられる曲が1番カッコいいTHE PINBALLSの形だった。それをいつの日かまた見ることが、感じることができたなら。楽しいことをはじめたら、呼んでくれないか。
しかしそれでもなおライブは終わらない。ダブルアンコールでは中屋もジャケットを脱いで白シャツで首にタオルを巻いて登場し、観客からの本当に大きな拍手に古川は
「声出せなくても拍手の音が本当に嬉しい。5人くらいしかいなくて、拍手が聞こえない時とかもたくさんあったから」
とやはり古川は涙ぐみながら観客に感謝し、そしてそんな自分と15年間一緒にバンドをやってきてくれた3人にも感謝の気持ちを改めて語る。その言葉を聞いている時の3人はいつもクールだ。じっくりその言葉を自分の心の中で咀嚼しているのかもしれない。
そして古川が
「少しでも穏やかな気持ちになって帰ってもらいたいと思って」
と言って演奏されたのは、この曲もやはりこれまでのライブでお見送りソング的にアンコールでよく演奏されてきた「あなたが眠る惑星」。ミドルのテンポで歌われる
「白黒に見えた世界が 色づく音に灼かれて
生まれた意味を知るでしょう
おやすみよ おやすみよ」
というフレーズは白と黒のモノトーンの世界のように見えるTHE PINBALLSというバンドが様々な色の音を持ったバンドであること、そのバンドが眠りについていくことを感じさせる。
「一人きりでいる時は 一人きりだと思う時は
忘れないであなたを
愛する人がいる事を」
そう思えば、バンドがいなくてもやっていけるよ。長い年月だったけれど、古川が初めて限界を超えたように高らかに歌う
「まるで嵐のように」
というフレーズのように、嵐のような年月だった。
しかしやはりこの日だけはこれでは終われないのだ。THE PINBALLSがカッコいいロックンロールバンドである。それを最後の瞬間として焼き付けなければいけない。そのための曲としてバンドが選んだのは「真夏のシューメイカー」だった。33曲目。2時間半。これまでの最長ライブを倍近く更新するような長い時間のライブでも演奏も歌唱も一切乱れることがない。やっぱり、こんな凄いライブができるバンドだったんじゃないか。今までのあっという間に終わっていくストイックなライブも好きだったけれど、最後のライブまでそうだったらあまりにも寂し過ぎた。最後のライブで自分たちのこれまでのカッコよさをはるかに更新してしまう。出会った時から撃ち抜かれるくらいのカッコよさだったけれど、最後の最後に森下が指を銃口のように頭に当てていた通りに、完全に撃ち抜かれていた。
演奏が終わると古川はいつも通りにすぐさまステージを去ったのだが、他の3人が呼び戻しにいくかのようにすると、全員で笑いながらステージに戻ってくる。
「最後に挨拶するんだった!(笑)」
と忘れていたのもライブへの集中力の高さゆえだろうけれど、一つわかるのはこのバンドがメンバー間の不和ゆえの休止ではないということ。かといって他の理由は自分にはわからないが、その4人の笑顔での挨拶は最後のライブとは思えない清々しさと、これから先にほんの僅かであっても希望を持てることを確かに感じさせてくれた。中屋の深々と頭を下げる姿は、基本的に人前でほとんど言葉を発さない彼の気持ちを言葉以上に雄弁に示していた。
場内が明るくなり、終演のアナウンスが流れると大きな拍手が起こる。その拍手を送る観客の表情はほとんどが笑顔で、泣いている人はほとんどというか全くいなかった。それは我々がちゃんとTHE PINBALLSを、この4人を見送ることができたということだった。
THE PINBALLSはずっと不器用なバンドだった。古川は上手いことを言えるようなタイプではないし、心にあることを整理できないままに口から出てしまうようなボーカリストであるし、活動の仕方からしてももっとメジャーの、オーバーグラウンドのシーンに合わせていくようなことができたならもっと早い段階でこの規模の会場でライブができたり、フェスでおなじみのバンドになれていたはずだ。
でもその不器用さがTHE PINBALLSの魅力でもあったし、不器用だったからこそ、メジャーに行ってからは特に満足がいかない作品や曲もあったかもしれないけれど、その世界に染まることなく変わらないままのバンドでいられた。カッコいい、我々が出会った頃のままのバンドで。
器用にはなれなかったから、誰しもが知っているようなバンドにもなれなかった。でも自分は、我々は、こんなにカッコいいバンドに出会えて、こうして目の前でそのロックンロールが鳴らされているのを何度も見ることができた。だからこそ、その姿を、その音楽をせめてずっと忘れないでいよう。これからもロックンロールを聴いて、笑いながら、涙を流しながら。
1.片目のウィリー
2.ママに捧ぐ
3.ヤードセールの元老
4.アダムの肋骨
5.ICE AGE
6.ニードルノット
7.CLACK
8.マーダーピールズ
9.SLOW TRAIN
10.DUSK
11.sugar sweet
12.沈んだ塔
13.ダンスパーティーの夜
14.まぬけなドンキー
15.way of 春風
16.蜂の巣のバラード
17.樫の木島の夜の唄
18.20世紀のメロディ
19.重さのない虹
20.蝙蝠と聖レオンハルト
21.七転八倒のブルース
22.ブロードウェイ
23.毒蛇のロックンロール
24.carnival come
25.劇場支配人のテーマ
26.ひとりぼっちのジョージ
27.ミリオンダラーベイビー
28.ニューイングランドの王たち
encore
29.ワンダーソング
30.アンテナ
31.十匹の熊
encore2
32.あなたが眠る惑星
33.真夏のシューメイカー
文 ソノダマン