自身の顔を出すことなく活動するアーティストという存在も非常に増えていて、個人的にその先鞭となったのはライブをやって目の前にはいながらもその顔はハッキリとは見えないという意味ではamazarashiだと思っているのだが、今の「ネット発の顔出しをしないアーティスト」という意味で言えば、ずっと真夜中でいいのに。であろう。今やNHK「SONGS」などに出演しながらもその神秘性は保たれたままであるという面も含めて。
そんな、ずっと真夜中でいいのに。は元々は去年のゴールデンウィークに幕張メッセイベントホールでの2daysワンマンを予定していた。「春フェス2つと丸かぶり過ぎていて果たしてどうすれば」という選択の悩みのは、コロナ禍によるフェスも含めてその時期のライブがことごとく中止になったことで杞憂に終わった。
それから配信ライブや秋には東京ガーデンシアターを含めたツアーもあったが、一年越しの幕張メッセイベントホールでのリベンジライブとなるのがこの日と翌日の2daysライブ。しかも昼と夜の2回公演。これはACAねの並外れた喉と声の強さを持ちながら、昨年の段階では「全くチケットが取れない」という状況だっただけに、この状況でも少しでの多くの人に見てもらいたいという気持ちがあってこそのものだろう。
検温と消毒、持ち物チェックを経て、COUNTDOWN JAPANがなかっただけに実に久しぶりの幕張メッセイベントホールの中に入ると、薄暗い場内のステージではずっと真夜中でいいのに。のライブでは初期からおなじみの(自分は2回目のワンマンから見ているが、毎回ステージを見るたびに驚く)秘密基地のようなステージセットが組み上げられており、開演前にもペインティングが行われていて、今まさにステージが完成する瞬間を目の当たりにすることができる。
開演時間の18時になると、特に暗転することもなくBGMもそのままにまずはメンバーたちがステージ上手に設置された「ZTMY marc」という建物の扉を開けて登場するのだが、全員がスカーフのようなもので口元を覆っているというスタイルはこれまで通りながら、明らかにメンバーの人数が増えている。
メンバーたちがそれぞれの持ち場に着くと、ステージ下手の2階部分、ライブ前にペインティングが行われていたシャッターを開けてACAねが登場。白いコートを羽織っているというのは他のメンバーたちと同様であり、前回の「やきやきヤンキーツアー」がタイトル通りにメンバーがヤンキーに扮していたのと同様に、今回は「CLEANING LABO」ということで、LABOの研究員たちという設定のようだ。
明らかに増員しているメンバー4人はメンバーたちが出てきた入り口の上の椅子に座るのだが、そこには複数台の洗濯機が置いてあり、まさに「CLEANING LABO」の研究員たちという様相だ。
その増えたメンバーは前回のライブまでにはいなかったストリングス隊であり、ロックファンにはMAN WITH A MISSIONのライブにも参加している、吉田宇宙ストリングスのメンバーたち。そのストリングス隊と村山☆潤のピアノが美しい音色を奏でると、今年リリースされたアルバム「ぐされ」のオープニング曲である「胸の煙」をACAねが歌い始めるのだが、まさにストリングスの音が入っている曲であるだけに、今回のアルバムに合わせた、ずとまよバンドとしての増員と進化と言えるだろう。
前回まではライブハウスやホールがライブ会場だったのが、今回はついにアリーナ規模ということもあって、ステージの両サイドにはスクリーンが設置されており、演奏するメンバーや歌うACAねの姿が映し出されるのだが、そこはさすが顔出しをしていないずとまよ。メンバーやACAねの顔はハッキリとは映ることはない。それでもこうした広い会場となると、なかなか後ろの方の席だとステージ上を把握しきれない(基本的に場内が暗いし)だけに、アリーナ規模に合わせた演出の一つであると言えよう。
スクリーンを演出と書いたのは、ダンサブルかつポップなサウンドによって観客が一斉に腕を上げる「お勉強しといてよ」ではMVよろしくそのスクリーンがテレビ画面のように縁取られていくというように、そのスクリーンに映し出されるメンバーたちの姿もただ映るだけではなく、曲によっては加工されたりというような映像としても機能していたからだ。
しかしそうした演出による視覚よりも、とにかく今目の前で鳴っている聴覚の方が凄まじいことになっている。ただでさえ凄腕揃いのメンバーによる演奏はこれまでもACAねの歌だけが凄いのではなく、ずとまよの音楽そのものの凄さをも表現してきたわけだが、そこに生のストリングス隊の音が絡むことによる迫力たるや。もう完全にこの広い幕張メッセイベントホールを飲み込んでいるどころか、見ている側の意識そのものが外の世界とは切り離されて、この会場の中にいる我々だけによる、ずとまよワールドの中に存在できているかのようだ。
ACAねはアウトロでは「ベベべべ…」と曲に合わせたフェイクも入れてきているというアレンジもライブならではである。
ストリングス隊は一旦ここで捌ける、というところが曲によって様々に編成や使う楽器が変わるというずとまよのライブならではであるが、ストリングスがないということは「ぐされ」以前の曲であるということで、ACAねのハイトーンかつパワフルなボーカルがダンサブルなサウンドを牽引する「勘冴えて悔しいわ」であるが、ストリングス隊のメンバーが曲演奏中にノリノリで捌けていくという姿もまた実にずとまよのライブらしいものだ。
しかし曲の1コーラスを歌い終わったところでスタッフがACAねにエレキギターをかけるので、「この曲途中からギター弾くっけ?」と思っていたら、メドレーのように「勘冴えて〜」のサビから
「ずっと真夜中でいいのに。です」
と挨拶してからの「ヒューマノイド」の呪術的なACAねのボーカルによるイントロへとシームレスに繋がっていき、ステージから客席には色鮮やかなレーザー光線が放たれていく。ライブではおなじみの曲であるが、今回の「LABO」という世界観に実にマッチしている曲であるとも言える。
スクリーンに「Have a」という文字が浮かび上がると、ずとまよのライブではおなじみのOpen Reel Ensembleの吉田悠、吉田匡の2人も白衣的なコートを着て登場し、オープンリールによるスクラッチ音などの様々な効果音を鳴らす「はゔぁ」のサビで一気に開け放たれていくようなサウンドからは再び「ぐされ」のモードへ。
ライブで生の演奏で聴くことによって曲の持つポップさをより強く感じることができたのは「繰り返す収穫」だ。そこには今こうして歓声をあげたりすることができない状況でのライブをやり、それを見ているというのもまたみんなで歌ったり、ずとまよのライブのあまりの凄まじさに拍手だけでなく声というダイレクトな形で返せるような日が来る、そこまで我慢した思いを収穫できるように、という感覚も重なっていたのかもしれない。
また、ACAねの背後にある透明の、まるで中に人が入っているんじゃないかというような巨大なドーム状のセットが照明の色によってその色を吸収しているのも美しい。ちょうどステージのど真ん中に鎮座しているため、この装置から全ての楽器や演出への力が供給されているかのようでもある。
するとACAねが登場したシャッターからはさらに新たなメンバーとして、津軽三味線奏者の小山豊も登場し、その楽器の持つ和のテイストにずとまよのサウンド、さらにはヒップホップまでをも融合させたかのような「機械油」は紛れもなくずとまよの新規軸でありながら、ずとまよにしか出来ない曲だろう。二家本亮介(ベース)はウッドベースを弾くなど、既存メンバーの編成も曲に合わせて変わっていくが、どこかこうした和のテイストへの接近は実によくわかるというか、こうした楽器としてわかりやすくは出てこなかったけれど、確かに持ち合わせていた素養の一つというか。
そうして新たなメンバーを加えながら、ACAねは再び登場したストリングス隊の元へ行くと、ずとまよグッズの象徴でもあるしゃもじを持って、リズム隊もしゃもじを振って踊りまくる「彷徨い酔い音頭」で客席のしゃもじも揺れ、
「すごい綺麗…」
とACAねも漏らすのだが、ストリングス隊のメンバーはストリングスを演奏するのではなく、新聞紙をビリビリと破る音で演奏に加わり、Open Reel Ensembleは絨毯を叩いたりしている。ACAねが電子レンジを叩いたりもしていたし、SONGSでもフィーチャーされたブラウン管パーカッションだけでなく、我々の周りに存在するあらゆるものを楽器として取り入れることによって、視覚的にもさらに「楽しい」と思えるようになるばかりが、我々もああした役割でこのライブに参加したいとすら思えてしまう。
二家本はACAねとともに2階に上がったドラマーの河村吉宏(星野源などのサポートもしている)に向けて、下に落ちてきた新聞紙の切れ端を投げ返したりというメンバー同士の関係性が窺えるような微笑ましい姿を見せてくれるが、この「彷徨い酔い音頭」はかつてのライブハウスで行われたライブではまさに夏祭りで酒を飲みながらみんなで手を叩いて踊るというような光景を作り出していたし、実際にライブハウスのドリンクでビールを飲みながら見ている人もいた。
そんな、今ははるかに遠くなってしまったように感じる光景を、こうしてこの曲をライブで聴くことによって思い出すことができるし、そうした楽しみ方を取り戻したいとも思う。それはそのまま、それぞれの住んでいる場所で行われるような、地域の小さな夏祭りの光景が戻ってくるということでもある。ACAねもそうして自分が育った街の夏祭りを楽しんでいたのだろうから。
ギタリストの佐々木”コジロー”貴之がイントロでマリンバのような楽器を奏でる爽やかさから一転して、二家本のゴリゴリのベースへと連なる「勘ぐれい」はダークなサウンドかと思ったら一転してアウトロが祭囃子のようになるという展開によって「彷徨い酔い音頭」の後に演奏される必然性を感じさせるのだが、それまでは全席指定でありながらも立ち上がって踊ったり手拍子をしていた観客を、
「一旦、座る…」
と座らせてから歌い始めた「過眠」はACAねのボーカルの類稀なる伸びやかさを存分に感じさせてくれる曲であるが、
「怒る瘡蓋よ 許されなくとも歌うさ
触れ合える今日が来ると 信じ眠りたいです」
という歌詞はこのコロナ禍だからこその自身の歌い続ける宣誓であり、また以前のような形でのライブができるようになることを願っているかのようでもある。
そのACAねが登場したシャッターが開け放たれた内部で蒸気が上がる緑色の液体が入ったフラスコや、様々な色の液体が入った試験管をいじりながら歌うという、「LABO」と題されているにしてもここまでやるのかというくらいに作り込まれまくった小道具をフル活用するのは「ろんりねす」。演奏されている楽器の数が少ないということもあって、スクリーンにはそうしたACAねの姿や、なぜか河村のアップなどが映し出されたりする。それゆえに今どんな風に歌っているのかというのが実によくわかる。
ACAねが蒸気が上がるフラスコを持って元の位置に戻ってくると、囁くような歌唱から一気にサビで爆発するという、ずとまよの静と動を1曲の中で体現したかのような「眩しいDNAだけ」のサビ前の
「笑って」
のフレーズを声を張り上げて歌うと、アウトロでは声にならない声を叫ぶ。もはやこれは2部の2本目のライブとは思えない歌唱力と声量であるし、何度見てもACAねのこうした張り上げるような歌い方には体だけではなく心まで震える。上手いとか声量があるとかだけじゃない力がその声や体には宿っている。
そのACAねがウォータードラムを叩いたりしながら歌い、スクリーンにはMVの自分とは違う命を慈しむような映像も流れるのは映画の主題歌としてずとまよの名前をさらに広く浸透させた「暗く黒く」。
間奏から急にアッパーになる展開を、ストリングス隊がドラマチックに煽るという意味ではこの編成になったことによってさらに本領を発揮した曲と言えるかもしれないが、
「全然取れやしない
やつが暗く黒く 塗り潰したとしても
決して奪われない
インスタントな存在でも
見えなくても 此処にある」
というBメロのメロディの美しさ、そこに込められたメッセージはまさに今この瞬間の楽しさと幸福は何人にも奪わせはしないというACAねの強い意志を感じさせる。それはそのまま今この日本や社会の状況でずとまよがこの広い会場でライブをやることを選択したということそのものである。
そしてACAねが再びギターを抱え、ずとまよのシーンへの登場を告げたイントロのギターをACAね自身が鳴らす「秒針を噛む」へ。間奏ではコロナ禍になる前は声で行われていたサビのフレーズのコール&レスポンスは今は手拍子によって行われているが、その観客によるレスポンス手拍子の音の大きさにはACAねもビックリしていたが、それにはその音の大きさに観客のACAねやメンバーへの感謝の気持ちが最大限に込められていたからである。もちろんその気持ちを込めたくなるようなライブをずとまよがしてくれたからであるが、こうして双方の想いが交差し、重なり合ってライブを作っている光景を見ると、ライブの出来が凄まじいという意味だけではない、ずとまよのライブアーティストっぷりを実感するのだ。
電子音のサウンドから始まり、ACAねがサビに行くにつれてステージを大きく動き回りながら歌い、バンドもこれでもかというくらいにキメ連発の演奏を見せて、バンドとしての音のあまりの強さを感じさせてくれるのはこれまでもライブのクライマックスを担ってきた「マイノリティ脈絡」で、ステージ上に熱気というか、何かを超えたオーラが発せられていく。もちろんそれは客席にも存分に伝わっており、それまでよりもさらに飛び跳ねまくり、踊りまくる観客の姿がよく見える。
そんな熱気やオーラをさらに高いところにまで連れて行くのは、村山☆潤の敢えての調子ハズレのピアニカによるイントロから始まり、スクリーンには演奏するメンバーとともに曲の歌詞が映し出される「正義」。
サビ前ではACAねが言葉にならない思いを叫び、踊りまくりながら歌うと、レーザー光線が飛び交う中でメンバーの演奏もそのACAねの気持ちと同期するようにさらに音量だけではない強さを増して行く。
ACAねは喋る時はたまに何を言っているのかわからないくらいに声が小さい時もある。でも歌になるとそんなことは全く感じさせないくらいに大きな声でハッキリと、しかも本当に我々と同じ人間という生物なのだろうかというくらいの力を持って歌うことができる。
それはACAねが歌うこと、音楽を演奏することでしかたくさんの人とコミュニケーションを取ることができない人だからだ。その対象は我々であり、メンバーでもある。だからACAねには歌しかない、音楽しかない人の情念のようなものが宿っている。それがこの「正義」の最後の叫びには全て宿っているし、このメンバーたちはそんなACAねのことを誰よりも理解して、ACAねと同じ気持ちや思いを持ってずとまよの音楽を鳴らしてくれている。それぞれの顔をハッキリ視認することはできないけれど、ある意味では究極に人間味のある音楽であり、ライブだ。だからこそこうして見ていたり聴いていたりすると、感動して涙が出てきてしまうのだ。歌詞の意味が書いたACAねにしか理解できないようなものであっても、込められている思いは確かに伝わってくる。歌唱力、演奏力がとんでもなく素晴らしいのはもちろんだが、ずとまよのライブの1番凄いところはそこだ。
そんなライブの最後に演奏されたのは、こちらも映画の主題歌としてたくさんの人がずとまよに出会うきっかけになった曲であろう「正しくなれない」。「秒針を噛む」を筆頭に、次々にキラーチューンを放ってきたずとまよが、それらの曲の後にライブの締めとして演奏することを選んだ曲。それはこの曲がこれからずとまよの代表曲として長く愛されていくことになるであろうことを予感させてくれるとともに、この時期にこうしてライブをやること、それを観に行くことが「間違っている」と言う人がいるのであれば、自分は、いや、我々はきっと一生正しくなれないんだろうな、と思う。
二家本と河村がお互いをブロックするようにしてステージから去っていくという退場の仕方も実に微笑ましいが、それなりに長めの待ち時間を経てアンコールで再びメンバーたちがステージに登場すると、「ぐされ」の最後の曲(ボーナストラックとして「暗く黒く」のライブ音源も入っているけど)である「奥底に眠るルーツ」へ。
「正義」と同様にスクリーンには歌詞が映し出されるのだが、
「返事あってください」
と表示されていた歌詞をACAねは
「健康でいてください」
と変えて歌った。それは観客へのACAねからのメッセージであるが、それも歌の中だからこそ強く、ハッキリと自信を持って口にすることができる。
スクリーンにその後に映し出された文字は歌詞から
「ライブ前にカレーを食べたいけど、ライブ前にご飯を食べるとお腹が痛くなっちゃう」
というACAねの遊び心溢れる私信へと変化していくのであるが、何がどうあっても自分が作りたい曲しか作らないというスタンスのACAねが、媚びることは絶対にしないけれど、常にファンや聴いてくれている人のことを考えているということがよくわかる。そのためにここまでやり過ぎなくらいに過剰なライブを作り、1日2回公演でも全くボリュームの変わらないライブをやってくれるのだ。それでいてクオリティは全く落ちないどころか、むしろ1部よりも声が出ていたというから信じられない。ダブルヘッダーの初戦で先発して勝利投手になり、2試合目で野手としてホームランを打つ大谷翔平のような。それくらい漫画の主人公みたいなことをACAねは至って平然とやってのけている。やはりもはやモンスターというか、我々とは違う存在なのかもしれない。
そしてACAねが改めてこうしてこの状況でもライブに来るという選択をしてくれた観客への感謝を素直に、でも今までのMCより大きな声で伝えると、最後に演奏されたのはタイトル通りにステージ上のミラーボールが輝く「MILABO」。間奏ではステージで演奏するこの日のメンバー全員のソロ回しを兼ねたメンバー紹介もあり、改めてこのメンバーたちが今のずとまよオールスターズであることを感じさせてくれると、
「ずっと 浅はかです 帰りたくないけれど
言わないで もう身体に鳴れない
変わってゆくから 私ねもっと
寝ぇ 見届けて 欲しがりでも zz」
という最後の歌詞は、これからもこの音楽を、このメンバーを、ずとまよをずっと見届けていきたいと思わせてくれた。やはり去り際には二家本と河村が戯れ合いながらステージから去っていった。個々でもソロで活動できるメンバーたちであっても、こうしてずとまよとしてライブをやるのは特別なことなんじゃないかと思う。
メンバーがステージから去ると、映画の主題歌としてYaffleとRin音とのコラボ曲にACAねがボーカルとして参加した「Character」のリリースが発表され、その告知映像が終わるとACAねが
「気をつけて帰ってください」
とアナウンスした。ありきたりではあるけれども、心の隅々までもがクリーニングされたような、ずとまよによる「CLEANING LABO」だった。
4月の東京などへの緊急事態宣言発令以降、千葉では発令されていないが、幕張メッセでのライブを中止にしたアーティストもいた。それはそれぞれの選択であるし、どれもが間違いではないし、どれが正解かなんて誰にも判断できない。
でもずとまよは政府から直接勧告でもされない限りはこのライブを絶対にやるつもりだったと思う。それはこのライブを作り上げたメンバーや、ステージを作り上げたスタッフなどの生活や表現や尊厳をもずとまよが背負っているからであり、何よりもACAねはこんな状況であっても、音楽と歌こそが他者や社会との唯一のコミュニケーションの手段であり、接点だからだ。
だから歌うしかないし、ライブをするしかない。それが自身の生存証明でもあるからだ。
でもそれは我々もそうなのかもしれない。音楽があるから、ライブがあるから他者とコミュニケーションを取れたり、感情を分け合うことができる。こんなライブを見たら、誰かとその凄まじさについて語り合いたくなる。ずとまよの音楽は、確実に人間同士を繋げる力を持っている。それが果たしてどこまで広がるのかをこれからも見ていたいし、ACAねの歌はどこまでだって届きそうな気がしている。ここまで思えるくらいに凄まじいボーカリストが今までいただろうか。この余韻が消え去らないように、ずっと真夜中でいいのに。
1.胸の煙
2.お勉強しといてよ
3.勘冴えて悔しいわ
4.ヒューマノイド
5.はゔぁ
6.繰り返す収穫
7.機械油
8.彷徨い酔い音頭
9.勘ぐれい
10.過眠
11.ろんりねす
12.眩しいDNAだけ
13.暗く黒く
14.秒針を噛む
15.マイノリティ脈絡
16.正義
17.正しくなれない
encore
18.奥底に眠るルーツ
19.MILABO
文 ソノダマン