「嘘だろ!?」
宙に浮いたサカナクションを目にした時、僕は、思わず頭を抱えていた――。
ベース・草刈愛美の出産と産休を経て行われた1年半ぶりのサカナクションのライヴツアー「SAKANAQUARIUM 2015-2016 “NF Records launch tour”」。僕はその日本武道館公演にいた。
僕は5年前にもここでサカナクションを観ている。「SAKANAQUARIUM 21.1 (B)」と銘打たれたそのライヴで、僕はサカナクションの虜になった。それまでのライヴの概念を超える規格外の演出はもちろんのこと、サカナクションの鬼気迫るパフォーマンスは、僕の心を鷲掴みにして離さなかった。
当時のサカナクションは、「日本中をサカナクション色に染めてやるんだ」という必死なまでの気概を感じさせたし、彼らは、残された音楽人生は残り少ないと言わんばかりに、生き急いでいるようにすら見えた。実際、山口一郎は難聴になってまでもこのライヴを強行したし、彼らは制作が佳境に入ると、いつ誰が脱落してもおかしくないほどの極限状態に自らを追い込んでいた。
だからリスナーも「サカナクションの音楽を聴くことができるのは今だけかもしれない」という緊張感に包まれていたし、サカナクションに向き合うにはそれくらいの覚悟が必要だった。その結果が、あの奇跡のような武道館ライヴを産んだのだ。
「武道館は単なる通過点だと思っていたけれど、あと5回くらいやりたい」これは、一度目の武道館を終えた直後の山口一郎の言葉だ。この言葉の真意は僕にはわからない。だが、今回のツアーで日本武道館がライヴ会場にラインナップされた時、僕はその「あと5回」が来たのだと思った。
話は戻って、「日本中をサカナクション色に染めてやるんだ」というモードのサカナクションは、二回目の幕張メッセ公演くらいまで続いていたように思う。それまで彼らはライヴごとに最高傑作を更新し続けたし、観客の想像の遥か上を行く演出で僕たちを驚かせ続けた。だが、圧倒的なパフォーマンスを見せつけられるたびに、彼らのインタビューを読むたびに、彼らの音楽に対する向き合い方を見るたびに、「これ以上の音楽を生み出すアーティストはいるだろうか」という嬉しさと、「サカナクションがいなくなってしまったら日本の音楽界はどうなってしまうのだろう」という悲しさが綯交ぜになった気持ちが僕の心に渦巻いていた。
だが、「SAKANATRIBE 2014」では、派手な演出からは距離を置き、「音響やPAの力があるから音楽が人に届く」というコンセプトのシンプルなライヴが行われた。それを見た僕は、彼らが「日本中をサカナクション色に染めてやるんだ」から「サカナクションのホームをこの場所に創るんだ」というモードに変わっていったように感じた。というのも、彼らは常々、サカナクションの音楽は「チームサカナクション」の力があってこそのものだと公言してきたからだ。もちろん、ド派手な演出もチームサカナクションの賜物だ。だが、二度目の幕張メッセで導入された5.1chサラウンドシステムといった「音」そのものの力に、さらにもう一歩踏み込んだのが「SAKANATRIBE 2014」だったように思う。視覚効果だけではなく、音楽やバンド自体の力を見つめなおした、そんなコンセプトライヴだった。
そして、クラブイベント「NF」が始動する。このイベントは山口一郎の提唱する音楽の楽しみ方を観客とサカナクションの共通項にするという、「サカナクションのホームを創る極地」のイベントだった。会場では、人々が思い思いに山口一郎の提示する音楽に耳を傾けたり、体を揺らしたり、時にはお客さんが山口一郎にビールを奢ったりと、(山口一郎は「ありがとう」と言いながら断っていたけれど)それまでのサカナクションとは全く違う、アットホームなイベントだった。
鬼気迫るサカナクションから、自分のホームを創るサカナクションへと移行していく姿をひしひしと感じたから、僕は今回の武道館は、アットホームな、自分の居場所を作るようなライヴになると仮説を立てていた。さらにいうならば、「SAKANATRIBE 2014」を踏襲したような、過剰な演出をそぎ落とし、アンプラグドなライヴになると踏んでいた。それが、あの宙に浮くサカナクションの登場で、そんな僕の仮説は一気に吹き飛んでしまい、頭を抱えたというわけだ。
今思えば、「SAKANATRIBE 2014」も、「NF」も、サカナクションの居場所創りのイベントではなかった。「SAKANATRIBE 2014」では音楽をリスナーに届けることの意義を、「NF」ではさまざまな音楽を楽しむことの意義を提示していた。武道館の冒頭で繰り広げられた太鼓と民族音楽のパフォーマンスも、「NF」の延長線上にあったものだった。
僕は今回のライヴを見るまで、「NF」の思想を少しも理解していなかった。「山口一郎が、自分の手の届く範囲でやりたいことをやる」そんな甘い考えで「NF」を認識していた。だが、サカナクションは「NF」を「音楽の復興」の思想だと位置付けていた。「ミュージシャンは未来の音楽のことを考えないといけない」これは『情熱大陸』での山口一郎の言葉だ。
「音楽の未来のため、今できることはなんだろう?」
その答えが「NF」だった。このツアーのタイトルは「NF Records launch tour」。直訳すると、「『NF Records』はじまりのツアー」となる。
サカナクションはもう一度、この場所から日本中を塗り替えようとしているのだ。5年前と違うのは「サカナクション色に染めてやる」というミニマルな、自分たちのことだけを考えてライヴを行っているのではなく、音楽の未来のため、音楽の復興のために「NF」という思想で塗り替えようとしていることだ。
ライヴが終わり、家路につく電車の中で僕は眩暈に襲われた。それはサカナクションの演出に目がくらんだという話ではない。彼らはまた途方もない旅に出たのだと、日本の音楽界はまたサカナクションにとんでもない重荷を背負わせてしまったという気持ちが引き起こしたものだ。
サカナクションはCD不況の時代に生まれてしまった己を嘆き、時代を相手に果敢に戦った。勝利を収めたものの、手にしたものも失ったものも大きかった。そして、また彼らは新たな戦いを挑もうとしている。なにもサカナクションだけがそんな重荷を背負わなくても、という人もいるだろう。だが彼らはもう、自分たちのためだけに音楽を作ることができないのだ。彼らには、音楽の未来が見えている。その未来にコミットするために成すべきことが見えている。その上、彼らには未来の音楽を描く才能がある。リスナーも、サカナクションの描く未来の音楽を見たいと思っている。特に今回のツアーでのまったく違う思想を持った彼らを目にした人は強くそう思ったことだろう。
「サカナクションはこれからどんな世界を見せてくれるだろうか?」
もちろん、この感情は一回目の武道館を見終えた時から僕の中に存在していた。二度の幕張メッセにも度肝を抜かれた。しかし「NF」の思想を理解した今では、彼らの目指す世界は、これまでとまったく異なるものだということを知ってしまっている。
そして、今回の武道館は、これまでのサカナクションと比べても明らかに異質だった。「NF」以前のサカナクションは、純粋なエンターテインメントだった。観客を高揚させ、サカナクションの虜にさせる。まっすぐなまでのエンターテインメント。
しかし今回のツアーは、エンターテインメントの先に、「音楽の未来について考える」余地を残すようなライヴが行われた。今のサカナクションが提示しているのは「『NF』という思想」そのものだった。
サカナクションは音楽の未来を考え、行動に移している。ならば、メディアに立つ僕は何ができる? そんな考えが、あのライヴを見てからずっと頭の中をぐるぐると駆け巡っている。