コロナ禍で従来のような活動ができなくなったサカナクションがコロナ禍に「適応」していく過程を収めた『アダプト』という名のアルバム。
adaptは適応する、という意味の動詞。
サカナクションはいつだってシリアスなメッセージ性を曲にしていて。
東日本大震災が起こった2011年には山口一郎の「いい加減なロックを今、時代は求めてない」という発言がちょっと話題になったりして。
だからこのアルバムもコロナ禍で戦時中で絶望的でシリアスな音楽なのかな、と思っていたのです。
でもこのアルバムを制作する過程や手法はコロナ禍だけど、
サウンドにはコロナ禍の負の感情がまったく表れてなくて偉いな、と思ったんです。
コロナ禍の負の感情は制作過程だけに押し込めて、サウンドはまったく別の位置に置いたんだな、
サカナクションらしくなくてなんかいいな、と思ったんです。
いままでのサカナクションならシリアスな音を作っていたのになって。
サカナクションって夢を見させてくれるなあって。
完璧だなあって。
で、最後の曲”DocumentaRy of ADAPT”に行くわけなんですが、
ここで急に絶望的な音がやってくるんですよね。
不安を煽るためだけの音が。
この”DocumentaRy of ADAPT”冒頭の不協和音、こんなに必要ですか……?
“DocumentaRy of ADAPT”の冒頭以外マジ完璧です。最高です。
“DocumentaRy of ADAPT”の冒頭の不安な音、最悪です。絶望に突き落とされました。
もちろんサカナクションがこの音をこんなに長尺で入れた、ということはもちろん意味があるんでしょう。
この曲が『アダプト』が生まれるためのドキュメンタリーだとして、必然なものだったとして、
でもこれ入れますか……?
3.11の曲を作るとして、津波や放射能に触れないのはきれいごとだと思う。
コロナ禍に適応するアルバムを作るとして、コロナ禍のギスギスした空気や絶望感を入れないものきれいごとだと思う。
だけどさあ、あまりにも、あまりにもだよ。
“DocumentaRy of ADAPT”の冒頭が来るのが怖すぎて繰り返し聴けない。
“DocumentaRy of ADAPT”ってCDにしか収録されていないんですよね。
サブスクには収録されていない。
”グッドバイ”は「この曲を出さなきゃサカナクションは終わってしまう」という焦りと、曲の完成度が、サカナクションとリスナー双方の求める形で合致した曲だけど、
“DocumentaRy of ADAPT”はサカナクションからだけの一方通行の欲望のように聞こえてしまう。
この曲を出さなきゃサカナクションは終わってしまう、というのなら受け入れるしかないけどさ。でもあまりにもだよ。(高橋数菜)
前作「834.194」がかなりの難産というか、出る出る言われながらもなかなか出なかったことを踏まえると3年ぶりというスパンはサカナクションにとっては短いアルバムリリースとなるが、2枚組だった前作と比べても今回はコンパクトな内容となった。
コロナ禍におけるオンラインライブでもすでに演奏されていた「プラトー」や「月の椀」ではサカナクションとしての美しいメロディによるダンスミュージックを聴かせてくれるが、今作の肝はなんといっても「ショック!」だろう。MVにおいても両腕を脇を締めたり開けたりするダンスで我々の度肝を抜いたこの曲の凄まじいキャッチーさはサカナクションが今でもシーンを一瞬で塗り替えることができる力を持ったバンドであり続けていることを示している。このアルバムのリリースツアーのコンセプチュアルなワンマンも本当に素晴らしかっただけに、山口一郎と一緒にまたライブで「ショック!」ダンスを踊れる日を楽しみに待っている。(ソノダマン)