今年のyonigeは延期に延期を重ねていた「健全な社会ツアー」のファイナルを6月に渋谷O-EASTでようやく行ったが、8月には予定されていた渋谷LINE CUBEでのコンセプトワンマンを感染状況の拡大によって中止し、しかしその週末のフジロックには出演して初のGREEN STAGEに立ち、その直前には新作ミニアルバム「三千世界」をリリースするというスケジュール的にも精神的にも目まぐるしい1年を送ってきた。
その「三千世界」のリリースツアーである「三千大千世界ツアー」は無事にこうしてファイナルまで漕ぎつけ、その舞台は渋谷のQUATTROという、フジロックのメインステージにも立った今のyonigeにとっては小さめのライブハウスとなっている。
QUATTROの客席は床にマス目が貼られたオールスタンディングであるが、ある意味ではQUATTROの象徴的な存在とも言える、客席下手に聳える柱の裏側あたりにはマス目がないという、ここに立ってもステージ見えませんよ、というのを会場側も理解しているかのようだ。
10月になって緊急事態宣言が解除されてキャパシティの上限が引き上げられたことによって、ソールドアウトしていたところに追加で当日券を出したりもしていたが、ドリンクがノンアルコールしかなかったのはまだ準備が整っていなかったからだろうか。
近年のヒット曲なんかが流れているという意外なBGMの中、19時になると場内が暗転して、鮮やかな髪色であるだけに暗くてもすぐにわかる牛丸ありさ(ボーカル&ギター)をはじめとした4人がステージに登場し、ステージが照らされると
「目が覚めた 15時半の合図」
というフレーズを牛丸がギターを爪弾きながら歌う「11月24日」でスタートするのだが、曲中でバンドサウンドになり、それが後半になるにつれて「この曲こんなに激しい演奏だったっけ!?」と思うくらいに展開していく。この曲は今では1曲目として定番になりつつあるが、そうして演奏され続けてきたことによって曲のスケールが進化してきているのがよくわかる。
それは曲後半から土器大洋のギターを合図に急激にテンポが速くなる「ここじゃない場所」もそうであるが、「健全な社会」という今のyonigeのスタンスを作ったアルバムの曲たち(それはフェスなどでは初見殺しと言われたりもしていたが)が、ここに来て実に肉体的、躍動的になってきている。それは久しぶりにこうした至近距離と言えるようなライブハウスで見ているということもあるかもしれないが、このツアーでそうしたライブハウスを回ってきたことによる影響は間違いなくあるだろう。
すでにフジロックでのライブでも収録曲を全曲演奏したことからもわかるように、yonigeはリリースを重ねるたびに新作のモードにどんどん向かっているのだが、そんなyonigeの最新作にして最新のモードである「三千世界」からはまずは「催眠療法」が演奏されるのだが、黒髪になったごっきんのベースがうねりまくる傍で、土器はサンプラーを操作しているという、傍目から見ても新しいyonigeの形であることがすぐにわかる上に、LI LI LIMITというバンドでも様々な楽器を使って演奏、曲を構築していた土器がいるからこそできる曲である。
そんな曲からさらにごっきんのベースが重さを増す「往生際」では牛丸のボーカルが実に伸びやかに響く。その歌声は大きなステージであればあるほどに映えるものになると思っていたが、この規模のライブハウスで聴くことによる迫力も間違いなく増している。
そんな中で近年のライブではおなじみの「2月の水槽」から、ホリエが曲と曲を繋げるようにリズムを刻む「バッドエンド週末」という流れに至るのだが、声を出してはいけないというライブの状況にも少し慣れてきたかのようにも思うけれど、バンドの演奏する姿やその演奏している曲から発される空気による緊張感が客席に張り詰めている。うっかりだとしても決して喋り声すらも発せないような。
「三千世界」の収録曲の中でも
「もうすぐおうちに帰らなきゃ
夕日が落ちたら帰れない」
というフレーズがほぼベースのみというサウンドで歌われることによって、どこか恐怖感すら孕んだ童謡のように聞こえて来る「子どもは見ている」では、そのフレーズでコーラスをしているのがごっきんでも土器でもなく、ホリエであるというあたりに、「催眠療法」での土器のサンプラーの演奏といい、サポートメンバーという立ち位置ではあれど、完全に今のこの4人でyonigeというバンドになっている。現在の中華料理店で隣り合って食事をしている牛丸とごっきんの向かい側で体の一部だけがかすかに映り込んでいるのも土器とホリエであるという。
ここまでは完全に「健全な社会」以降の、今のyonigeのモードを見せるというものであり、そこに挟まれた過去曲たちもそのモードに合ったものであるのだが、牛丸のギターが一気にノイジーになり、バンドのビートも疾走感を増すと「顔で虫が死ぬ」という初期のyonigeのシグネチャーであった、ノイジーなサウンドとキャッチーなメロディというサイドを久しぶりに垣間見れる。
それは続く「最終回」もそうであるが、この曲での牛丸は何故そんなに?というくらいに毎回歌詞を間違える。というか覚えてないんじゃないかという感じすらあるが、どこかそれがクスッとできるものになっているのは、ここまでの緊張感や集中力があまりに強かったからであろう。
「緊急事態宣言も解除されて、追加でチケットを売れるようになったから、当日券を買って来てくれた人もいると思います。感染対策をこれからもしっかりやっていきましょう」
というMCの時の牛丸の表情が少し柔らかいものに感じられたのは、こうしてライブが出来ているからということもそうであるが、感染者が減ってきた状況に対してもでもあると思う。フジロックの出演前日にもバンドは出演するにあたっての声明を出していたが、今のyonigeは自分たちのことだけではなく、世の中のこと、周りの人のことを考えられるバンドになっている。見た目以上に、そうした精神面の成熟に、特に牛丸が大人らしくなったように感じる。
そんな簡単な、しかしバンドの真意が覗けるようなMCのあとは軽快なサウンドとメロディに観客の体が揺れる「どうでもよくなる」から、同じようなテーマの歌詞によって曲同士に連結性を感じる「また明日」と、牛丸が何気ない日常の風景を独自の視点と筆致で描く曲のモードへと至り、「三千世界」の「わたしを見つけて」はイントロの小気味良いサウンドが、まるで少し洒落たカフェでかかっている音楽であるかのように感じられる。歌詞の歌い出しが
「まさかりかついで山に出かけたら」
と、そうした雰囲気を吹き飛ばすようなものにもなっているのだが。
そんなサウンドや雰囲気をさらにオーガニックな方向に持っていくかのように、牛丸はアコギに持ち替えてしっとりしたサウンドと歌声で「サイケデリックイエスタデイ」を歌い始める。原曲をアコースティックにしたかのようなこのアレンジも今やライブではおなじみだ。
そのまま牛丸がアコギを弾く形で「ベランダ」を演奏すると、「沙希」ではその揺蕩うようなサウンドに合わせてミラーボールが眩しく輝く。まるで映画の中のダンスシーンがスローモーションで流れているかのようであるが、基本的に今は演出らしい演出がない(中止になったLINE CUBEでのライブはコンセプチュアルなものであったらしいが)yonigeのライブの中では一際輝く演出である。
そのゆったりとしたサウンドがメンバーの音を鳴らしている姿も相まってどこか温もりを感じさせながら、夕焼けのようなオレンジ色の照明がメンバーを照らすことでそれが際立つ「あかるいみらい」を終えると、「三千世界」のインタールード的な「どこかのチャイム」が次の曲へと繋がるように鳴る。
その次の曲は「三千世界」のラストを飾る「27歳」なのだが、この曲はCDとサブスクでアレンジが異なるという面白い試みがなされており、ここで演奏されたのは重たいバンドサウンドに市井を生きる人の街を眺める視点が綴られたサブスクバージョンなのだが、牛丸がギターを下ろして、ステージ上にセッティングされているのにここまで全く使われていなかったキーボードを弾くというポップなサウンドのCDバージョンが続け様に演奏される。
アレンジだけではなく歌詞も全く違うという、もはや曲タイトルも変わっていてもいいようなものなのだが、ここではOLの視点で箱根に旅行に行ったりすることを夢想するという、現在27歳という、数々のロックスターたちが亡くなった年齢に達した牛丸のif的な人生が歌われているかのよう。この曲での歌詞の書き分けっぷりは牛丸の作家性の高さを改めて感じさせてくれる。
そして「三千世界」のリード曲であり、すでに「健全な社会」ツアーファイナルやそれ以降のライブでも演奏されていたという意味では、すでに定番曲になっているとも言える「対岸の彼女」は
「ライターの火が風で消えないように」
というフレーズに合わせて、後ろでライターの火がつくかのような照明が実に美しい。今回のツアーの物販で、日常において使う機会が減ってきているライターが販売されているのは間違いなくこの曲の歌詞に合わせてのものだろう。
そんな今のyonigeの必殺曲的な曲を演奏してもまだライブは終わらず、最後に演奏されたのはサイケデリックな音像の中で牛丸の幽玄なボーカルが揺れるように響く「最愛の恋人たち」。サビ、さらにアウトロになるにつれて轟音へと至っていくのを見ていて、もはや盛り上がるような曲をやることはないけれど、間違いなくyonigeはライブで曲の真価を伝えられるようなバンドになったと思った。それくらいに素晴らしい演奏であり、自身の鳴らす音が終わった瞬間にすぐに牛丸はステージから去って行った。
正直、もしかしたらアンコールはないんじゃないかとも思うくらいに終わりと言われても納得するように客電が点いて客席は明るくなっていた。それでもこのご時世故の規制退場が始まらなかったので、観客が手を叩いて待っていると、再びメンバーが登場。
「今回のツアーは岐阜でしかアンコールやってないんですけど、今日はやりまーす」
とどこか軽い感じで再び牛丸はギターを手にしたが、それはこの状況の中でもこうしてツアーを最後までやり切ることができたという安堵と達成感があったからだろう。こうしてアンコールに応えたのもそうした感情があったからだと思われる。
そんな中でメンバー4人が向き合うようにして音を鳴らして始まったのは失われた今年の夏に少しでも舞い戻れるかのような「リボルバー」。しかしながら牛丸は序盤から歌詞が飛び、2コーラス目では
「あー、ダメだ」
と言ってマイクから離れ、ごっきんもそんな牛丸の姿を見て、この日初めてクスッと笑う。
「永遠みたいな面した後
ふたりは別々の夢を見る
君のおへその形すらもう
忘れてしまっている」
というCメロ部分ではこの日最初で最後の曲中での手拍子も起こるのだが、その手拍子が鳴ったことによってCメロであるとわかった牛丸はそこからは全てから解放されたかのような素晴らしく伸びやかなボーカルを最後に聴かせてくれた。それは、その姿を見れただけでもこうしてこの日ここに来て良かったと思うほどに。
本編とは異なり、最後には牛丸が1人ステージに残って深々と頭を下げた。22曲で1時間半という、まるでパンクバンドのライブかのようなスピード感でもって、そのほぼ全ての時間で曲が鳴らされていた。
フジロックの時のライブも、直前まで出るかどうか迷っていたという声明はありながらも、ライブ自体はあの会場の自然も相まって開放的なライブを見せてくれたのだが、この日のライブを見て、完全に牛丸は、yonigeはそうした迷いや逡巡の時期を超えたのだと思った。それはきっとこれからもyonigeはyonigeらしく、自分たちのやりたい音楽をやりたいように鳴らしていくだろうという未来が見えたし、何よりもほとんど喋ることはなくても、そうして音楽を鳴らしている姿が楽しそうだった。それが1番見たかった光景だったのだ。
1.11月24日
2.ここじゃない場所
3.催眠療法
4.往生際
5.2月の水槽
6.バッドエンド週末
7.子どもは見ている
8.顔で虫が死ぬ
9.最終回
10.どうでもよくなる
11.また明日
12.わたしを見つけて
13.サイケデリックイエスタデイ
14.ベランダ
15.沙希
16.あかるいみらい
17.どこかのチャイム
18.27歳 サブスクver.
19.27歳 CDver.
20.対岸の彼女
21.最愛の恋人たち
encore
22.リボルバー
文 ソノダマン